Outside

Something is better than nothing.

多寡の誘起

it is a lot of chrome

 新型コロナウイルスの感染拡大が続き、いわゆる第三波が猛威を奮っている中、毎日「過去最多」ないしそれに類似した言葉が飛び交うようになって久しい。私はというと、仕事上エッセンシャルなワークでもないけれども、単に設備上の不足という物質的な理由によってリモートではなく、職場に毎日通って仕事をしているのだが、ついに明日からリモートワークを部分的に行うこととなった。それにしたってセキュリティ上の問題から、生産性を発揮できる環境なのかというとまったくそうではなく、その生産性の文字について真剣にあれこれ考えるあたり私もサラリーを延々と受け取るしがなさが板についてきたのかもしれない。

 アメリカ大統領選が(おそらく相当数の人間による努力のお陰もあって)ある程度まで落ち着き、しかしアメリカにおける感染状況も極めて悪く、また本邦においても、もはや政府の政治能力の欠如によって一連のGo Toでさえ一時中止できない事態であるのだが、その無能の結果として人々がバタバタと死んでいく事態に陥ると考えるとぞっとする。

 あまりにおぞましいものであると生理的に理解しているからか、テレビですらその顔を見たくないのだが、たまに不可抗力的に見てしまうそのご尊顔にはにやにやとした嫌らしい何かが張りついていて、一体何を見せられているんだろうと思っていたが、どうやら世間の人もある程度まではそう思っていたらしい。それにしたって酷い。そこには人死にがどこまで進んだとしても一向だにしない頑なさしかないではないか、と思う。

 そしてそれは世の中にありふれてしまった。渋谷区では路上生活を行う女性が殺され、また度数の高いアルコールの一気飲みをゲーム感覚で(事実、ゲームであったのだろう)行わせ、おそらくは急性アルコール中毒で死んだであろう若い女性もいるようである。

 毎日、感染者数の多寡に一喜一憂をして、その繰り返しの果てにおそらく大多数の人が第二波の辺りで少し疲れてしまったのではないかと推察するが、そうこうしているうちに百が二百になり、二百が三百になり、三百という数字に動じなくなってきたところで四百、五百と増えていく。ついに六百という数字を超え、心理的な麻痺の水準がどんどん引き上がっていく。もはや四百では少ないという感想すら覚える。

 我々はどうなってしまうのだろうか。