Outside

Something is better than nothing.

檄文と檄データ

 あまり時間を作る機会に恵まれなかったこともあって、まとまった文章を書くことはなかったものの、仕事の中ではほとんど毎日、それなりの分量の文章を書く機会に恵まれて、それはいいことなのか悪いことなのか分からないけれども、とにかく「書く」ということに関しては続けてはいた。

 で、久しぶりにまとまった文章をブログに書こうと思ったのだけれども、子育てと仕事の往復で特に書くべきテーマもないように思って、前回記事を書いてから相当の期間が経った。

 その間に映画も読書もほとんど中途半端な状態に陥っているし、それを言うならば小説を書くことすらも長い手紙に関するものを書いて以来、短いものですら書くことがなかったので、とにかくアウトプットが途絶してしまい、何もかも中途半端にあったわけなのだが、その中でも熱狂することができたのはラグビーワールドカップ2023だった。

 妻と私は2019年にラグビーをまともに見てからというものの、ラグビーの魅力に取り憑かれることになったわけなのだが、全48試合ある中の、ほぼすべてを見ることになった。我々が特に応援していたのは南アフリカで、彼らは最終的には優勝することになる。強烈に私の印象に残ったのは、ニュージーランドとの決勝戦ではなく、フランス戦やイングランド戦でのある出来事だった。

 そこで何が起こったのか。

 ラグビーではフェアキャッチと呼ばれる、敵陣から蹴り込まれたボールを自陣の22メートルライン内でキャッチした際、マークと叫ぶことで自陣から蹴り出せる、一種の救済措置のようなものがある。敵陣から攻め込まれた際に、リズムを整えたり、ピンチを凌いだりする際に使われ、そこではまず間違いなくキックによって蹴り出すことで陣地を回復することを選択する。実際、南アフリカとフランス戦、またはイングランド戦を除いて、今回のワールドカップで見られたフェアキャッチは100パーセント蹴り出していた。

 しかし、南アフリカスクラムを組んだ。

 彼らは上述の二つの戦いにおいて、あえてスクラムを組む、という選択をした。このスクラムは自分たちのボールでのスクラムにはなるものの、開始位置はと言うと自陣の22メートルラインからになり、ペナルティを取られてしまった場合、ペナルティキックの危険性もあるし、下手するとトライされてしまう危険性もある。また、スクラム自体は組んでいる間も試合時間は流れることになり、例えば自分たちが負けている場合は、プレイする時間が削られていくことにもなる。

 しかし、南アフリカスクラムを組んだ。

 私は何がなんだか分からなかった。単にラグビーの戦術的な選択について、前例という意味での理解が及ばなかっただけに留まらない。なぜ、彼らはこれほどまでに合理性のない選択を、自信満々に行ったのか。特にイングランド戦では南アフリカは劣勢に立たされており、後半(セカンドハーフ)において残り二十分くらいの時間帯だったように記憶している。そこで万一にでも失敗をしてしまったらどうなるか。敗退するしかないわけである。

 しかし、南アフリカスクラムを組んだ。

 彼らを応援する我々は、彼らの選択を見守り、応援するしかなかった。スクラムは、果たして、いずれも成功に終わった。直接的にトライに決める展開にはならなかったものの、結果としては駒を進めることになったことからも分かるように、その選択は間違いにはならなかった。

 単にラグビーに留まらず、私は彼らの選択というものが、ビジネスパーソンとして経済合理性だとか収益性だとかKPIだとかの数字に囲まれ、その合理性や結果に直接的に現れるか否か、とか、例えばデータドリブンな文化とか、そういう、言ってしまえば「御託」に囲まれた自分の生活、望んだか望んでいないかにかかわらず、我々の行動を規定する資本主義という規律から離れたものを見せつけられ、動揺していた。

 あの二つのシーン、あの象徴的なスクラムの選択を見てからというもの、私は頭の中で何度もあのスクラムを選択した「理由」を追い求めている。この「理由」は、南アフリカのメンバーにとっては自明のことであったかもしれないのだが、それを見る私にとってはひたすらによく分からないものだった。それは単に誇りをかけた、とか、スクラムに自信があったから、とかそういう言葉ではない。それを選ぶということについて、私は何ら共感できなかったものの、その選択それ自体について、ただただ圧倒されたのだった。

 彼我の違い。価値観の違い。競技の違い。違う点はあげればキリがない。自信。強靭さ。フィジカル。屈強さ。しかし、これは肉体のものではないような気がした。人間とは何か、という手垢のついた命題について、私は知らず知らず考えていたように思う。

 まだ答えは出ていない。たぶん出ないとは思う。けれども、そのスクラムは、それを行った彼らを超えて、私を揺さぶった。例えばブレイディみかこブレグジットを選択したイギリスにおいて、当時の選挙対策委員がどういう戦術をもってブレグジットを民衆に周知していたか、というところを解説した文章を思い出した。彼はデータを分析していった結果、あるスローガンを披露したのではなく、地べたの人たちと交じり合っていくことで、そのスローガンにある言葉を付け加えることに至った。Take back control. そこにbackを入れることで、それは檄文となった。ブレイディみかこは檄データなどない、と喝破したのだった。

 繰り返しになるが、南アフリカスクラムを選択し、濡れた彼らの誇りを取り戻すことになった。素人の私が考えつく限りでは、そこには合理性などでは計り知れないものがあったように思う。そして、繰り返しになるが、私にはまだそのことが本当の意味で分かっていない。

 たぶん私は、あまりにも多くの「御託」、ステークホルダー、分析、解説、妥当性、妥協に囲まれているのだろう。人間は躍動できる。ただそれだけのことなのかもしれない。しかし、身体を忘れた私にとってそれは、最も難しいことなのかもしれない。