Outside

Something is better than nothing.

抽象性から抽象性へ

 先日、千葉雅也の『現代思想入門 (講談社現代新書)』を読んでいたときに、以下の文章に出会った。

 その後、レヴィナスはもうひとつの大著で、ひじょうに大胆なキーワードを出してきます。それは著作のタイトルなのですが、「存在するとは別の仕方で」というものです。フランス語では「Autrement qu'être」、英語では「Otherwise than being」です。『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(一九七四) という著作です。
 存在という超抽象的な全体性の地平から、なお外れるような他者──ドゥルーズ的に言えば、存在の全体性から逃走線を引くこと──を考えたとき、その他者はいったいどのように「ある」のかが問われています。それはもはや「ある」とは言えない。なぜなら、「ある」と言ってしまったら、ただちに存在論に引き戻されることになるからです。
 そこで、言葉に無理をさせる必要が出てきます。というか、こういうときに言葉に無理をさせるのが哲学者の面白いところです。「ある」というのは我々にとって根本的ですが、さらにそこから外れるものをかろうじてすくいとるために、存在するとは「別の仕方で」、「別様に」というふうに、 もはや副詞でしか言えないことを言おうとするんです。結果、「存在するとは別の仕方で」で止める、という無理やりの表現がつくられた。
 こう言っては間違いなのですが、言ってみれば「オルタナティブな存在」みたいなものではある。だけれどもそれをオルタナティブな存在と言ってしまうと、存在論に回収されてしまうからダメで、「別の仕方で」と言うしかないのです。(千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書Kindle版位置: 1,954、注記:原文の文字飾りは削除、引用部分の太字は引用者) 

 レヴィナスについては出身大学で哲学に関する講義を受ける中で、幸運にも合田正人に出会うことになったので、非常に大きな知見を得られる機会には恵まれたのだったが、不幸にも私にはあまり哲学の素養がなく、レヴィナスについてはかろうじてその著作の名称を覚えたくらいだったか。また、講義の中で仰っていたこととして、顔、存在、陽だまりといったキーワードを思い出す次第であるが、とにもかくにも記憶力の不足によって断片のみが今に生きる。

 ところで、先ほどの引用の中に、極めて抽象度の高い方法で、存在について記述している様が書かれている。抽象性がそもそも高い議論について、さらに抽象度の高い方法によって、それを推し進めようとすることについて、私は何ら否定的な立場ではないのだが、こういう面白さをどのように考えていけばいいのだろうか、と考えることが多かった。

 頭の中でもやもやと抽象度の高いことについて考えることはあるのだが、その考えを言語化し、また具体性に落とし込んでいく作業を行う中で、抽象と具象をブリッジする言葉のポテンシャルと、その言葉を思考する頭の、しかし先に行こうとする飛躍の制御を課題として考えていた。

 この飛躍、とは、自分の頭の中で議論が進んでいき、いざアウトプットする段になった場合、三段論法的演繹が行われ、前提となる議論の確度が下がってしまうことによる混乱なのだろうと思う。何を言語化するのは分かっているが、どのように言語化するのか——あるいは、このどのようにを分解し、どのような流れで、どのような論理展開をもって、というところ。

 これを具体性をもって行おうとすることはたやすいと思われる。比喩や換喩を使うことで、抽象性の高い事柄を別に何かに理解可能な形にしてしまい、その一般化をもってアウトプットに役立てる、というような。千葉の議論でいえば、オルタナティブという言葉がまさに該当するように思う。ただこの言葉を使ったときに、本来持っている射程からこぼれ落ちてしまうものがあり、そもそも抽象性が持っていたものを捨象してしまう。

 ゆえに、抽象性から抽象性へ移行していくしかない、という風にも思うのだが、ここの陥穽はもちろん三段論法的な演繹になるのだろうと思う。そもそもの前提が言わば机上の空論めいたものになってしまい、強度を持ち得ないからだ。

 ではどうするのか、というか、これを何のために為すのかというところでまた方法論が分岐するのだが、哲学的な議論を進めていくのであればこれを突き進めていくしかないし、学問的な見地からしてもその種別によって方向性は異なるものの、妥協が必要なわけではないだろう。しかし、逆にビジネス的に言えば、むしろこの妥協は期日だったり締切だったり費用対効果だったりを前に、当然なさなければならなくなるわけで、そのために私は抽象性を一般化することを余儀なくされる。

 この一般化については、例えばChatGPTのAIによる応答を元に行う、というのは最近のはやりなのかもしれない。私もやってみたのだけれども、目的を前提に、頭の中の議論を整理していくためのツールとして、ほとんどSF的な副脳というべきなのか知性アシスタントというべきなのか分からないのだけれども、そういった使い方ができるように思う。そこまで高度な思考を巡らしているわけでもないので。

 したがって、抽象性から抽象性への移行は常に困難がつきまとうわけなのだが、何らかの妥協を行う必要があり、このために一般化を余儀なくされ、この一般化によってこぼれ落ちる要素もあるものの、成果の前にそれは虚しいのであった。