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Something is better than nothing.

子のいる人生

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 2022年はロシアによる一方的なウクライナへの武力侵攻に想起される暴力のイメージが横たわっているように思われる。本邦においても、安倍元総理の銃撃、これに伴う旧統一教会の諸問題といった具合に。

 さはさりながら、私にとって2022年という年はひたすらに祝福の年でもあった。昨年もまた私にとって幸福の絶頂にあった年でもあったのだが、それが持続した形になる。

 私は子を持つ人生を歩むことになった。

 太宰治が「桜桃」の中で「子供よりも親が大事」という言葉を呟くのだが、一度読んで以来それが頭にこびりついて、子供という言葉に常にそれが付き添っているような状態であるし、シェイクスピアの述べた子供が産まれたときに泣く理由を知っていないわけでもなかったのだけれども、相当に長い期間にパートナーともども悩んだ末に、私たちはその人生を歩むことになった。

 ということで、生活が激変することになった。あらゆる優先事項は子にあり、私という存在は子をケアするためだけにある、といった案配で、仕事への関わり方、プライベートでの生活の仕方すべてが激変した。

 先に述べた暴力が、ある力が有無を言わさず他者のあり方を一方的に変えるもの、であるとすれば、子の存在というものは「そこに存在している」というただそれだけの力によって、私たちのあり方を一方的に変えるという意味で、途轍もない暴力を享受したことになる。もちろんこれは比喩であって実際の感覚ではない。

 パートナーとの関係性も含め、すべてのことが一度見直され、再配置され、子を中心とした生活に再構成されていく中で、私は人生の圧倒的な受動性のようなものを感じる。先ほど述べたとおり、「そこに存在している」という感が日に日に増していく子の成長を前に、「わたし」というものは否応なく本能によって規定されたかのごとき行動を選択することになる。今まで時間的にも空間的にもなかったものが、今はそこにある、ということの圧倒的な実在感とでも呼ぶようなものが、私の前に現前し、過去を切断し、未来を創造していくことになる。

 写真と動画は尋常ではない量が蓄積され、記憶の片鱗が断片として提示されるにつけ、私たちの辿ってきた軌跡にも思いを馳せることになる。かつて私がそこにいた位置づけが、今、目の前の脆弱でありながら不貞不貞しい存在なのだ、と。

 有無を言わさずに子の写真を見ると喜びを感じることになり、面倒に巻き込まれたとしてもいらだちを覚えることがあったとしても最後には妥協することになる。私の決心や思いなどどうでもいいところに、子は存在しており、その存在を主張する。

 この年はこのような幸福に一人の男が見舞われる年であった。非常に個人的で、ありきたりであるが、そうであるこそ力強く感じられる……。

 ウクライナ情勢を見るにつけ、私たちが取り戻さなければならないものはこのような幸福だろう。