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九月病のリズム

The Golden Curtain

 秋口になると不思議なもので、私は「九月病」と勝手に呼んでいる気分の落ち込みに見舞われる。これは1週間とかそこらで終わるようなものではなく、ほとんど1ヶ月近く続くもので、その期間中には普段は酒が好きなのにめっきり飲まなくなったり、仲良かった人と話すのがひどく億劫になったり(まだそれはマシな方で、場合によっては関係を遮断する)、まあ、とにかく気分が変転する時期なのである。

 これを明瞭に理解したのは2年前のことで、そのときになって初めて自分の1年を通してのリズムに気づいた。人間の持つ体調や心理の変化というものは、1日、1週間、1ヶ月、1年……とさまざまな周期があるものだが、私はそのときになって初めて自分の1年というスパンにおける心理的な周期に気づいた、ということになる。

 今年に関しては九月病の落ち込みはかなり軽減されたものの、しかしながら台風の発生による頭痛が辛いことは辛く、ほとんど毎日、頭痛薬を飲んでいた。それで緩和されるならまだしも、飲まないよりは、という程度の効果しか出ないため、結果的にはイライラとすることが多い。

 例年と比べると頭痛の発生が多く、イライラが募った挙げ句に酒量が増え、飲むだけならまだしも二日酔いの頭痛も重なって、無駄に辛さを抱えることとなった。こういうことはよくないと理性が訴えかけていても、どうしても飲みたくなってしまう。

 よく飲みに行く人は「喉が渇いた」と言い募ることが多いのだが、渇きの耐えがたさは空腹よりもひとしおで、恥知らずの渇きを裡に抱えては、夜ごとに街に繰り出して酒を求める毎日なのであった。しかし、なんといっても間違いなくそれは「渇き」なのである。

 福田恆存は『人間・この劇的なるもの (新潮文庫)』の中で、ロレンスが年月の運行とそれに基づく教会の各種行事について「日々の太陽に息づくリズムなのだ」と述べていることに触れ、「私たちが型に頼らなければ生の充実をはかりえぬのは、すでに私たち以前に、自然が型によって動いていたからにほかなら」ない、と述べている(P.152-153)。

 九月病もまた、このリズムによるものであることは明白であると同時に、おそらくは渇きについてもまた何らかの型ではあるのだろう。そこには例えばビジネスパーソンは「日々の仕事の愚痴を言うために飲みに行くことでストレスが解消される」という型があるはずで、それをことさら否定しようとは思わないけれども、この渇きはこの型から生じるリズムであろう。

 殊に思いを馳せるのは人間の身体に流れる時間について、である。身体のマトリクスに、おそらく時間があり、それは四次元的に存在する一つの線なのだ、と思うようになった。それは外部要因なのではなく、内部にそもそもとして存在していたものなのだ、というような。

 そしてすでに答えは出ていたのだ、とも思う。リズムによって身体が支配されてしまうのであれば、そこには最初から時間が含まれていなければならなかったはずで、時間は、我々の身体の中に当然のように存在し、同時にまた「通り過ぎて」いく。

 

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