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Something is better than nothing.

9月の振り返り(Stairway 9)

Shrimp

 きわめて個人的なことであるが、先般、記したとおり9月という月には何か呪われたものがあるとしか思えない、そういった気分の落ち込みがあるので、この月において酒量は増え、特に理由もなくペソアを読み返しては、世界というのは無神経な連中のものなのだという負け犬の遠吠えのようなことを思うのだけれども、しかし同時にそれが負け犬の遠吠えであるとは思わないところがどうしようもないところである。

 北海道で大きな地震があり、改めて天災の凄まじさを思い知ることになるのだが、同時にこれは古来より続いてきた。だからといって矮小化する意図はないにせよ、しかしこの地震の多さについて今後を考える上で不安を覚えないわけにはいかない。

 けれども、時は21世紀になったところで、LGBTQ等の多様なパーソナリティを担う存在がクロースアップされつつも、圧倒的マジョリティである男女の境すらまともに扱えない。

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 記事中のピリオド・ポバティー、生理貧困にのみクロースアップするのならば、我が国にも同様の事態はすでに起こっているらしく、改めて貧困に伴う具体的な支障――もちろん、貧困というのはいつだって具体的なものでしかないわけなのだが――があげられている。

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 状況は刻一刻と悪くなっており、よくなる兆候は特に見出すことができないにせよ、人生は続いてしまう以上、我々は何らかの向日性を見つけていくしかないのかもしれない。しかし、出版を担っていた会社が差別性を許容することによって、一体何が起こったのかと言えば、たぶん最後の装飾のようなものの剥がれ落ちる瞬間であり、もちろんさまざまな方面から元々腐っていたという指摘はあるかもしれないけれども、文化というものにおける何か重要な建前を失ってしまった。

 剥き出しの暴力性のようなものが、おそらく今後、何ら躊躇もなく世の中を覆って行ってしまうのだろうが、それを思い留まらせる虚構の力が、かくも脆く崩れていく様を見るにつれて、暗澹たる気分を更新することとなった。

時は青銅となって最後の時代に入る。

 と、私はパウル・ツェランの習作期における「アルテミスの矢」(『パウル・ツェラン詩集』飯吉光夫訳、小沢書店、1993年、P.11-12、以下同)が好きで、小説のエピグラフにも使ったのだけれども、解説による「時代はおそらく黄金の時代から、〈銀〉の時代をへて、〈青銅〉の時代へと逆行している。戦争による大厄災をもたらした現代が野蛮な〈青銅〉の時代として最後にあるが、この三つの時代はまた、太陽、月、闇の時刻と照応している。」ということらしい。

 どうでもいいことだけれども、ふと思い出したので最後に引用しておこう。

 堀口大學『月下の一群』(岩波文庫、P.47)のアポリネールの章に「海老」という詩があって、これはこのような詩になる。

 不安よ、おお、私のよろこび
 お前と私とは一緒にゆく
 海老が歩くやうに
 後へ後へと。

 私たちはいつだって後退し続けているのかもしれない。

 

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