Outside

Something is better than nothing.

夏の感慨

 東京五輪は終わりを告げたことになったが、新型コロナウイルスの惨禍は続き、台風もやってくるところで、我々はもはやこの国は生存に適した場所ではなかったのかもしれない、と思うのは、例えば人口の半分を占めるはずの女性は、たかだか幸せそうにしているだけで殺害のターゲットに選ばれる始末で、それは少なからぬ人がその身に新たな生命を宿したときに感じる「幸せ」に対してもターゲットであるのであれば、確かにこの国はもはや高齢社会のその先に進んでいくしかないのかもしれない。8月7日に起こった小田急線車内での、少なくとも10人を殺傷した事件は衝撃をもって受け止められたが、同時にその動機の部分にも多くの関心が寄せられた。私はこの犯人について、いささかなりとも同情の念を覚えない。あまりに悲惨な事件であると思うし、このようなことが起こっていい道理がそもそもとしてないのだ。

 夏は厳しさを増しているように感じられる。年々その暑さに嫌気が差すようになってきたが、同時にもうその時期に外に出ようなどとは思わなくもなってきた。細切れの文化の残骸を8月8日に見て、開会式よりもなお失望した。個々の文化は存在しているかもしれないが、結局のところ国としてまとまるはずの理念を喪失してしまっているこの現状をまざまざと見せつけられた気がしたのだった。特段、国家を恃もうと思っているわけではないが、しかし死と税金からは逃れられないこの人生の、片一方に密接に関わる組織に対して、まさかここまでの分断が訪れていたのだと思ったのだった。

 我々は個人主義的に生き、山河ありというその野原に生きているような感じを覚える。だから個々人の利益が最大化し、公(おおやけ)の利益は度外視される。中抜きの果てに乏しい手取りは、各々の活動を束ねるための底力を損なわせる。もはや誰も見ていない。

 だが君は跳ばねばならない、とかつてなら思ったかもしれない。今はやはり地下に潜っていくしかないのだ、とも思う。多くのことが毀損された。