Outside

Something is better than nothing.

作ること?

yes. create.

 有給休暇なるものを取得した一日、というのは、仕事というものがのっぴきならないものとして存在する平日の中で、すっぽりと空いた穴のような、あるいは航空中に遭遇するエアポケットのような、そういった代物である。で、金曜日の今日、どこか仕事のリズムを狂わされると体のリズムも狂ってしまい、もういっそこのまま家の中で眠っていようかと怠惰なことを考えていたところ、なんとはなしに検索した結果として出てきたのが国立新美術館で行われている「未来を担う美術家たち 21st DOMANI・明日展」というものだった。

 例によってアートに触れる機会というのは少ないので、かなり久しぶりにそういう空間を訪ったことになるのだけれども、意外と微妙で、逆説的にいろいろと考えさせられた。創意がない、というわけでもないのだけれども、かといってこのクリエイティビティの行方というものが、かなり厳しいものを孕んではいないか、という気がした。

 その中で個人的に興味深いと思えたのが村山悟郎で、「自己組織化する絵画(樹状多層構造)」といったものがあった。捉え方が正しいかどうかは自信がないのだが、樹木のイメージを現代的な技術を駆使しつつ捉えようとしている印象があった。イメージの細部に至るまで、そこに構築された戦略性のようなものは知性を感じられて興味深い。生命のイメージを喚起させつつ、テクニカルな側面(インスタレーションとしてディスプレイ3枚を並べて、その構造上の軌跡を表示している)が単に野生のみでは終わらない。手書きで幾何学的なもの(「同期/非同期時間のセルオートマトン」)を描いており、これは唸った。

 映像系に関しては木村悟之の「ポリンキー」が面白かったのだが、なんというか、この面白さはPV的なものであって、アートという側面からどう踏み込めばいいのか、少し判断に迷う。ただ人をダメにするソファに座りながら、ヘッドフォンを装着して大きな画面でその映像を観ていく、という体験はとても居心地のいいもので、またそこで使われている音楽、また映像の微妙なぼかし加減など、かなりセンスを感じさせるものだった。

 もちろん冒頭に示されているように、SNS戦略があってのこういった展示だとは思うので、蓮沼昌宏のパラパラマンガ的なアニメーションも面白かったし、細部まで描かれているそれについてはもはや商品性を持たせた方がいいのではないか、とさえ思う(ある種の職人芸的な風に見えてしまう)。

 若い人たちにおけるアートへの向き合い方は、かつての芸術家が直面したものと比べ、はるかにハードルが高くなり、はるかに技術的な習熟度の広さが求められるのだろう、ということが非常によく分かる展示ではあった。つまるところ工業製品が提示する(簡易でありながら、そしてそうであるがゆえに圧倒的に効率のいい、そして我々が日常的に手にする)「美しさ」を前にして、芸術家たちが何を、どのように提示していくのか、そしてそれは一体何をもって「アート」としての俎上に載せていくのか、ということなのかもしれない。

 いや、もちろんそのアートなるものについては非常に複雑なコンテキストを持っているのだろうし、だからこそ上述のような感想が意味を持つことはないのだろうが、それでも、SNS上にアップすることを前提とした展示作品たちを撮るスマートフォンそのものの方が、ひょっとするとある種のアート性を持ってしまえている状態がなんだか非常に「平成の終わり」というサブタイトルまでついているこの展覧会の厳しさなのかもしれない。