Outside

Something is better than nothing.

コンディションの恒常性

Crystal

 たぶん誰にでも訪れるであろう代物ではあるのだろうが、三十歳になってから周囲との関係性や、二十代ならば抱きうるものだった熱情がすっかり失われてしまって、体の奥底にある熾火のような、熱はあるものの、けれどもどこか距離があるような、そういう状態に、ふとした瞬間に寂しさや、もの悲しさを感じる。

 同時に体の疲労感というものが変わった。以前はとんでもなく元気で、かつ、とんでもなく疲れる、といった浮き沈みの激しさのようなものがあったのだけれども、この一年間、かなり冷静に自分の体調というものを見ていく中で、そういう浮き沈みの激しさが自分の中から少しずつ失われているような気がしてならない。

 それはコンディションの恒常性が高まったのだろう、と一義的には思う。同時に感情の浮き沈みの少なさは、小説的な気運の減退ということにもなろうかと思う。私自身はずっと何かを書き続けていたような気もするのだけれども、その状態に身体が置いてけぼりになってしまう。

 コンディションがどんどん一定になっていけばいくほどに、身体性というものは透明になっていく。私の身体が、私の身体としてそこにあること、そのことが私の認識にとり、「当たり前」のものになっていくこと。

(この書き方は誤解を生むような言い方かもしれないのだが)女性の場合、この身体におけるコンディションの恒常性は極めて難易度の高いものかもしれない。私には妻がいるが、妻の身体にとり、恒常性を感じる瞬間というのは稀だ。

 以前は浮き沈みの振れ幅が私の方が大きかったし、よく病気に罹っていたが、今ではそれも逆転している。仕事も、疲れ果てて何もする気が出ないくらいだったのだが、今ではかなり余裕が生まれている。

 まだ体力と、失われていくあれこれが拮抗しているからそう思えるのだろうが、なんというか不思議な感興を覚える。身体性に焦点を当てたが、社会性もまた変化している。自分の身体が、社会の中に置かれたとき、かつてと今ではかなりあり方が変わっているものだ、といったような。

『運び屋』(2018年)

 クリント・イーストウッドの『運び屋』を観る。

 クリント・イーストウッド演じる九十歳のアール・ストーンはデイリリー農家として各地の品評会に出品しては注目を集めていたが、やがてインターネット通販により従来の商売スキームでは売り上げが芳しくなくなり、やがては銀行に農家を差し押さえられてしまう。それまでデイリリーの栽培に心血を注いできて、ダイアン・ウィースト演じる妻メアリーとは別れ、また実の娘であるアリソン・イーストウッド演じるアイリスは、彼女の結婚式に出席しなかったことから十二年あまりも口を利かなくなっていた。唯一、孫娘であるタイッサ・ファミーガ演じるジニーは彼に親しみを感じているが、差し押さえ後、彼女の婚約パーティーを訪れたときに他の家族から疎まれていることをまざまざと見せつけられてしまう。しかし、そこで彼女の友人が彼の仕事に対する熱心さと、免許を取得後、一度も違反していない優良ドライバーであることを買って、ある仕事を提案する。指定された場所に向かったアールは、怪しげな男たちによって車に荷物を積み込まれる。この荷をここからある場所にまで運べば、金を得られるという。アールは実に淡々と仕事を運び、初めての仕事を完遂する。そしてその金で孫娘の結婚式の資金援助し、少しだけ家族との絆を修復することができる。二度、三度と彼は運び屋としての仕事を行うようになり、そのたびに差し押さえられた農園や、退役軍人会への寄付を行う。彼の仕事ぶりは従来ならば考えられないほど破天荒で、ときおりは路上で困るドライバーに手助けし、また寄り道をして食べ物を買う。しかし麻薬カルテルのボス、アンディ・ガルシア演じるレイトンにとっては、最終的に積荷がある地点からまた別の地点までたどり着けばいいと、そう思っていた。ブラッドリー・クーパー演じるDEA捜査官コリン・ベイツは、ローレンス・フィッシュバーン演じる上司から期待され、麻薬組織の壊滅を目指して動くが、タタ(爺)と呼ばれる運び屋の存在を掴みかけていた。ある日、アールに監視がつくようになり、それと同時に彼の荷物は重くなる。彼はメキシコのボスの元に招待され、歓待さえ受ける。そのまま順風満帆かと思ったが、ある日、組織の中でクーデターが起き、ボスが殺され、これまで緩やかな締めつけが厳しくなり、アールへの締めつけも以前よりも厳しくなる。アールはこれまでのように寄り道ができなくなり、誰かを気ままに助けることもできなくなる。そんなある日、彼の元妻であるメアリーが危篤に陥る。ジニーから連絡が入り、すぐに来てくれと言われるものの、彼は自分の仕事があり、そしてまた締めつけがきつくなっていることを理由に断る。ジニーに罵られ、またメアリーの死に目に会えないと誰もが思ったが、アールはメアリーの元に戻ってくる。家族はふたたび絆を取り戻し、メアリーもまた、互いに愛を再確認しながら、亡くなっていく。葬式にも出席したため、行方をくらませていた期間は一週間にも上り、組織に捕まったアールはあわや殺されるところだったが、仕事を完遂させる命令が新しいボスから出て、彼はまた運び屋として積荷を運ぼうとする。だが、タタことアールを探していたコリンは内通者から彼の存在を嗅ぎ分け、とうとうアールは捕まってしまう。裁判で彼は自分の罪状を認め、刑務所に入っていく。あらゆるものは金で買えたが、家族との時間は買えなかった、と思いながら。

 老齢のイーストウッドを見るのは、もうこれで最後なのかもしれないし、それはたぶん『グラン・トリノ』のときに誰もが思ったのかもしれないし、私は未見だが『人生の特等席』こそが本当の本当に最後なのだ、という感想を持っていたのかもしれない。とはいえ、彼は九十歳の年老いた一人の男を演じ、また演じ切った。そしてそこにはただ単に俳優としての肉体があるのではなく、九十年という時間の重みを漂わせる時間の象徴としての演技も添えて。

  私はこの映画を素晴らしいと思うのだが、それは映画のテーマなのだろうと思う。この映画は、劇中、明確に描かれるように時間、それも失った時間とその修復についての映画であり、「九十歳」ではない私たちにとっては、その失われた時間というものは、「今後ありうるかもしれない時間」でもある。

 そしてその時間は、物語の筋としての「運び屋」を描きつつ、実際にはアールという一人の人間の積み重ねた(空白の)時間が描かれてもいる。その中には人生の中でもっとも重要な存在の一つであるパートナーとの間の、損なわれた関係性と、その修復がある。

 私はここで題材(運び屋)を否定したいわけではない。ただ「運び屋」を通して描かれた彼の仕事の時間(ある種の能力の高さやコミュニケーション能力の高さ、社会的な承認欲求の強さ)が、同時に彼の家族の時間(の空白)をも内包していることが、凄いことなのではないか、と思うのだ。だから画面の中に描かれる「運び屋」としての彼の姿は、ほとんど常に複数の意味を持ちながら、それでも画面自体のシンプルな力強さと、ささやかに提供されるBGMとによって、軽やかに、淡々と進んでいく。ただし背景にあるものは、膨大な時間である。

『グリーンブック』(2018年)

グリーンブック~オリジナル・サウンドトラック

グリーンブック~オリジナル・サウンドトラック

 

  ピーター・ファレリーの『グリーンブック』を観る。

 ヴィゴ・モーテンセン演じるトニー・“リップ”・バレロンガはナイトクラブ「コパカバーナ」で用心棒の仕事を行なっていたが、改装工事のために一時的に休職し、やむなく仕事を探すことになる。持ち前の大食漢としてホットドッグを大量に食して大食いチャンピオンとして金を稼ぐということも一つにはあったのかもしれないのだが、知り合いに斡旋してもらった運転手の仕事にありつくためにカーネギーホールの上にあるドクターの家に面接に向かう。そこにいたのは医者ではなく、音楽家のマハシャーラ・アリ演じるドクター・ドナルド・シャーリーで、彼はディープ・サウスことアメリカ南部を回る八週間のツアーの運転手を探していた。アフリカ系の人間が家に来たときに、トニーの妻リンダ・カーデリーニ演じるドロレスが振る舞った飲み物を入れたコップを捨てるほどの偏見に囚われていた彼だったが、提示された条件のよさに気持ちが傾く。召使いとしての要素を省いた上で、週給を若干上げて交渉した結果、彼は雇われることになり、ドンのレコード会社はアフリカ系の旅行者が安全に泊まれるモーテル等を記載したハンドブック「グリーンブック」を手渡す。どうかすると偉そうにしか振る舞えないドンと、粗野な振る舞いをするトニーは事あるごとに対立していくのだが、ドンの奏でるピアノの旋律にトニーは感激し、またトニーの物怖じせずに距離を縮める姿勢に、双方少しずつ気を許していく。しかし南部のアフリカ系差別の凄まじさは北部の比ではなく、ステージを一歩降りると、ドンは差別に晒されるようになる。ある晩はバーで飲んでいるときに客に絡まれ、ある晩はトイレの場所で差別をつけられる。それ以外にもトラブルは頻発し、ドンは同性愛者として男性と一緒にいるときに警官に捕まりそうになり(そのときはトニーが賄賂を渡して解放される)、またある地域では夜間にアフリカ系の人間が外出していると罪になるため、運転中の彼らは逮捕されてしまう。そのときにトニーはイタリア系の出自を愚弄され、激昂した結果、警官を殴ってしまう。ドンはそのときに弁護士に電話をかけるふりをして、懇意にしているロバート・ケネディに電話し、なんとか逃げる。さまざまな事件や衝突の中で、彼らは友情を育んでいき、やがてはトニーがドロレスに書く手紙へのアドバイスを行なったり、ふたりで笑い合ったりするようになる。しかし、最後の公演のときに、ドンはレストランでの食事を断られ、アフリカ系の人々が集う飲み屋で食事をし、そのときにドンは即興で演奏もする。クリスマスに間に合うように彼らはニューヨークを目指し、雪の中だったが、最後にはドンも運転して到着する。ドンは最初、遠慮して自宅に帰ることにしてトニーを家の前で降ろすが、彼との友情が捨てがたく、トニーの家を訪れる。ふたりは友情がこれからも続くということを実感しながら、温かい抱擁を交わすのだった。

 おおむね好感を持てる内容だったことは間違いない。単純な人種を超えた友情という点よりかは、当時における差別の温度感というものを如実に示し、そこにおける「契約」を元にした関係性の強さがまずあるように思う。冒頭から描かれていたように、トニーは決してアフリカ系の人々を快いと思ってはいなかった。当然ふたりに帰すべき友情の素晴らしさという点が最終的にはあるものの。イタリア系というトニーの出自がやはり重要な要素の一つである。

 思ったよりも複雑な背景があるのだろうが、描かれた側面というところは個人的にはかなり好きな部類で、観ていて、やはりほろりとするところもあった。