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開会式のこと

Rings

 昨日、2021年7月23日(金)に東京五輪の開会式が行われた。この日は例年「スポーツの日」として10月の第2月曜日に設定されている祝日が、オリンピックの開会式に合わせ、海の日とともに移動した祝日で、変則的になる。ただしこれは昨年度も同様で、新型コロナウイルスのためにオリンピックそのものを延期したため、昨年度に続き、変則的な祝日が続くこととなった。スポーツの日、と書いたが、これはもともと「体育の日」で、1964年の東京五輪の開会式の日を記念して作られたもので、その時々の法改正によって現在に至る。

 東京五輪自体、新型コロナウイルスの感染拡大とワクチン接種の不芳の最中に行われることに批判の声が止まず、私自身も開催には反対している(いた)ことはまず明らかにしたい。私はスポーツやアスリートにそれほど思い入れがないため、彼らがどのような声を上げても、どちらかというと身近な存在の見えない脅威に対する不安感の方を優先してしまう。

 政府の明らかな失策、失政によって新型コロナウイルスの被害もさることながら、ガバナンスの欠如により、大会関係者の相次ぐ不祥事に開催の意義自体が問われることになった。これはNHKが開会式の中継をしているときに、アナウンサーが述べてすらいることであって、周知の事実というより他はない。

 個人的には好きなコメディアンだった(元)ラーメンズ小林賢太郎が大会直前にホロコーストに対する過去の迂闊な発言により解任され、開会式の演出やクオリティに不安を覚えながら私はテレビの前で開会式を見ることにした。

 先ほど私は開催自体に反対だと述べたが、開会式を見たのは一種の怖いもの見たさのような感覚があった。そして実際のところ、開会式はそれほど良いものではなかった。この「それほど」というものがいかほどのものなのか、というのを記録に残しておこうとこの記事を書くことにしている。

 私が印象に残っている限りにおいて、小林賢太郎的な演出がかなり多く見受けられた開会式だったが、個々の演目がほとんど無機質で、文化の荒涼さを感じこそすれ、豊潤さを感じることはないその開会式の、まず最初に空々しさを覚えたところはドラゴンクエストマーチが高らかに鳴り響いたところであった。

 だんだんと耳慣れていくにつれて、その空々しさは無関心に取って代わられたものの、空々しさは続く。テレビ的な演出の数々が私をさらに何かから遠ざけた。この国の文化というものはテレビ的なものしかないのだろうか、というのが正直なところで、テレビ的な人間がいることは構わないが、すべてがテレビ的な文化水準、演出、音の使い方、色、カメラワーク、スポットで挿入される寸劇であることが良いことなのか、というと疑問符が残る。というか、疑問符しかない。

 親やすさとクオリティはまったく異なるものであり、それは一種のヘタウマの境地でしか戦えないことの証左ではないか、とも思う。個々の演目それ自体のクオリティはいい(のかもしれない)、ただそれらを有機的に関連づける力が足りなかった。

 橋本聖子の、バッハのどうでもよく、また空々しいがためにそれを糊塗するため無意味に長々しい(そして初めの空々しさは拭いようもなく印象に残る)話の後で、もはや政治的にしか利用されていない天皇の開会宣言があり、その最中に菅総理大臣と小池都知事は眠っていたためなのか、そもそも彼らは初めから目を開けていなかったためなのか、遅れて立ち上がる。医療関係者を見せかけの配慮として配置し、長嶋茂雄という国民的スターの痛々しい姿に心を痛めながら、大阪なおみが聖火台に火を付ける。彼女の発言に勇気づけられた者も多かったはずだが、それをこんな風に利用されているところを見たくはなかった。見せかけの多様性と調和の中で、彼女が真に訴えていたかったことはこんなことではなかったのではないか、という風に想像したが、しかしこれがまさしく現実でもある。

 欺瞞の中にアスリートの努力が沈んでいく。そして、この体たらくに、我々もまた沈んでいくのだろう。

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