Outside

Something is better than nothing.

怒りの矛先

 何度も書いてしまっているので言わば芸がないのだが、何度でも語るべき金井美恵子の『〈3.11〉はどう語られたか: 目白雑録 小さいもの、大きいこと (914) (平凡社ライブラリー か 38-2)』の末尾近くになって、ある作家の記述が引用されていた記憶があるのだが、そこには「怒り」について触れた文章があり、それをこの夜にふと思い出した。

 そしてこの「怒り」という感情について、私は実を言うとかなり卑近な対象にしか抱いていないような気がしており、昨今の菅義偉自民党政権による悪政については途方に暮れるとか呆れるとか諦めるといったそういった感情しか抱いていなかったかもしれない。いや、もちろん最初は怒りを抱いていたのだが、その怒りの感情の連続は日常のとんでもない忙しさによって流されてしまい、怒りを維持するためには膨大なエネルギーを必要とするものだから一旦はそれを脇に置いて、エネルギーとして維持しやすい前述の態度を保持するに至ったのである、といった塩梅、であるのだろう。

 しかしながらこの悪政において私の記憶ではNHKのウェブサイト上で新型コロナウイルスのワクチン接種状況が更新され、もちろんそれは全世界の情報をまとめているものだから、非情なまでに遅延していることが分かってしまう。ウイルスは忖度してくれなくてもワクチンの迅速な接種とその体制構築くらいは人間のコントロール下にあるのではないかと思うので、当然ながら本邦においては迅速な接種体制を、と思っていたところに大阪の方で蔓延防止重点措置という緊急事態宣言と何が異なるのか質的にも量的にも何も分からない、しかし重点措置ではあるらしい適用がされて、東京もまた徐々に感染者数が増え続けている。他方でオリンピックは醜悪この上なく、汚染水もまた醜悪この上ないキャラクターの表象を借りて捨てられようとしている。

 一体いつからこの醜悪さを恥と思わなくなったのだろうと思ったときに、私は言葉に対する価値観の根底を完膚なきまでに叩き壊した安倍晋三の、例えば「ご飯論法」と揶揄され、同時にその異様さを覆い隠したその語り口がそもそもの原因なのではないかと思うのだが、この言葉への信頼なくして社会の信頼は構築できない、と思う。

 いつしかマウンティングは溢れ、言葉の軽視の果てに意味や内実、経緯といった七面倒くさい、しかし積み重ねられてきた文脈よりも、関係性を基準とした判定がなされ、表層が流されていく。私たちはもはや内面を持たない。あるいは、持てなくなっている。あるいはそもそもとしてないものだったが、それを維持するふりすらかなぐり捨てて、人間という皮膚が溶けている。