Outside

Something is better than nothing.

そもそも新しいものではない——こどもの視展について

A Child

 もうすでに終わった展示会について語るべきことはないのかもしれないのだが、なんとなく心に留めているものがあったので、先日行った伊藤忠商事のITOCHU SDGs STUDIO主催する「こども視点での体験を通して、こどもとの暮らしや社会の在り方について考える体験型展示『こどもの視展』」(リンク先より引用)に行ってきた内容を記載したい。

 情報番組などに取り上げられたこともあって、思ったよりも人手が多く、また開催スペースが小さいこと、新型コロナウイルス対策というよりはそもそも出入り口の導線が一方向にしかないこともあって、非常に混雑していた。

 子どもの視点で世界を見る・体験するといったことは、環境世界ではなく、環世界的であってアイデア自体は私の好むところだったが、他方で言えば先のリンク先に記載されている内容以上のものは何一つなく、得られた情報以上の新しいものは何一つとして得られなかったことが残念であった。

 大人になると子ども時代のことを忘却してしまうわけなのだが、しかしながら我々はこの子ども時代を必ず通過した上で今ここに至っている。もちろんこの質的な体験の濃淡については個人差があるし、全員がこの展示会で取り上げられていたような経験をしているものだとは到底思わないのだが、想像の共同体に一応は属している我々からすると、この展示会で取り上げられたあれそれはそもそも新しいものではない。私の記憶力は致命的であると自覚しつつも、しかしこれは単純に記憶力の問題であろうと思う。あるいは、想像力というか。

 カフカはその断片の中で、泳ぐ人のことを書いたことがあるように記憶している。そこでは泳ぐ人は、「泳げなかったとき」の記憶を忘却することができず、そのために泳ぐことができない。実にカフカらしい断片であるのだが、私たちは繊細さをかなぐり捨てて言うとすれば、子ども時代を忘却することでようやく大人の視点を得ることができる。

 他者の立場を自分に置き換え、想像し、追体験する能力。

 この子どもの視展の本質的な観点はむしろここにあるように思う。ここを技術的に追体験させる仕組みを持ち込んだこと自体は何ら批判されるべきものでもないのだが、同時に言えば、この紹介文である程度のことが想像できる人間からすると、あまり意味がないように思うのだった。

(補足しておくと、鈍感な人はどこにでもいるようで、以前にネットか何かで見た記憶があるのだが、例えば「妊娠状態」を男性が体験するために重りをつけさせてみたところ、その男性は筋肉質だったのか容易にそれを身につけて行動することができたようで、「妊婦は何ら大変ではない」といった感想を漏らしたそうなのだが、当然ここでの問題は重量に対する筋肉の不足を体験することではない。重りをキックにして、妊娠状態の女性の持つ肉体的負担はさることながら、単にその重たさを筋力で支えなければならないだけでなく、「大切なもの」として守り通さなければならない精神的な重たさと、その精神的な負荷があることによる肉体的な重さ、生理的な変化という重層的な重たさであったはずである。そのため、このケースで言えば単に重たさを体験させただけで「軽いじゃん」となるような鈍感さを持っているのであれば、確かにこの展示会でVRゴーグルで大人に叱られるという体験をすることは無駄ではない)