Outside

Something is better than nothing.

葬送の繊細な感覚

graves

 エリザベス女王が亡くなったとき、私は英国のモナキストではないので、ブレイディみかこ経由で知ったジュリー・バーチルのある少数グループに生まれつくことは云々といった言葉を思い返していたのだったが、同時にNHKのニュースやネットニュースの写真などで見る限りにおける故人の死を悼む様子について、敬虔さを覚えた。

 本邦の他国から見れば国家元首と見なされる人物が彼女を見送るために旅立ったわけで、本邦に暮らす人間としてみればある種の礼儀を取った次第であるし、特段故人に関して私は何ら関連性もないのだから恨みもつらみもない。政治性を抜きにして言えば、単に一人の女性が亡くなった。だからこそ、その死を悼む人々の敬虔さに対しては敬意を払うべきだ、と思う。

 翻って本邦には、来週の火曜日に国葬儀というものに付される人物がいる。この人物について、私はこの国に住まう人間としては利害関係があったわけで、なぜなら選挙権があるときに、その人物はこの国の首相として長い間務めていたからなのだった。

 私はあまり天国だとか地獄だとかを信じる人間ではないのだが、先の人物については地獄に落ちるのだろうと思っていた。地獄というものがどういうものなのか、あいにく私は経験したことがないため詳しいことは分からないのだが、なぜそう思ったのかと言えば、この国の行政の長であったにもかかわらず、個人的な観点としてはこの国をブロークンな状態に導いていったような気がするからで、ために引き起こされた断絶は、そもそも社会上に存在する断絶の裂け目を必要以上に広め、修復不可能な形にしたのではないか、とも思っている。あるいは言葉に対する信頼感を絶望的に低めてしまい、もはや金輪際、政治家の言葉などどんな些細な応答でさえ誰も信じない状態にまでなってしまった——国会における答弁でさえ。

 ということで、現下、東京五輪におけるさまざまな汚職が明るみに出、反社会的な存在だと目されている旧統一教会と政権与党との癒着が報じられるという状態に結果として彼の人物が亡き後に至っているわけである。

 そうしてみると、地獄というのは一体何なのだろうとも思うのもまた事実で、『サウスパーク』の映画版(1999年)はサダム・フセインが地獄のサタンと共謀して(というかサタンは手込めにされて)地上に地獄をもたらしたことを思い出す。

 彼の人物の死そのものについて、一人の人間が単純に亡くなった、しかも殺害されるという形で本人の意とはまったく異なる暴力的な方法でこの世を去ってしまったこと自体について、何ら肯定的に考えるものはなく、殺人そのものは忌むべきものだとも思うのだが、その去った後に残されたぬるま湯の地獄はどうすればよいのだろう、とも思う。

 腐臭は絶え間なく漂い、もはや誰が死に、誰が生きているのかも分からない世界である。この状態の中で、我々は国葬儀という形で一体何を送るというのだろうか。我々はすでに「こんな人たち」と彼我を明確に分けさせられた、少なくともあちら側ではない人であるし、そもそも彼の人物はその腐臭を世間に漂わせており、彼の人物はある意味でまだ死んでおらず、我々はゾンビとしてこの世に留まろうとする彼の人物をまず先に真の意味で葬り去るために、さまざまなベールを剥がさなければならないように思う。

 国葬儀というものが何なのか、私はまったく分からないにしてもその入札が一社であるというのが直前になって取り沙汰されているし、誰かを見送ることに対する繊細な感覚が欠如しているように思う。故人を悼むこと自体の敬虔さ・厳粛さのようなものは、我々が人間である以上、持ち続けなければならない感覚であるとは思うのだが、しかしその感覚を維持しようにも彼の人物にそれを向けようとした途端に、さまざまな悪行が思い出されて邪魔される。