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礼と規範

Stratford Ontario ~ Canada ~ Perth County Courthouse ~ Heritage Building

 これは特に学術的な根拠がある話ではないのだが、孔子の「礼」について考えているとき、なぜこの「礼」という概念が春秋戦国時代という動乱の時期にあって生まれたのか、ということを孔子の専門家でもないのに考えていたことがあり、別に孔子について詳しいわけでもないので合っているか合っていないのかはさておき、この「礼」のような概念が出る背景はもしかすると戦国時代だからこそではないか、というようなことを思ったのを覚えている。

 この形式性を重視すること、それが戦国時代にあって人間性を担保するために必要な所作だった、というようなことを考え、つまりそれは出会い頭に敵国人だからといっていきなり斬られたりはしないという意味においての所作である、というような類のものだ。

 ここで述べた孔子の理解はおそらく孔子という言葉がつく以上は何らかの意味で間違っているとは思うのだが、しかしここで感じた直観のようなものは信じたいと思う。人間が人間としてあるためには、ある種の形式性が担保されないとならないのだ、というような。それは人によっては人権であるだろうし、礼であるのかもしれないし、規範であるのかもしれない

 スティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラットの『民主主義の死に方―二極化する政治が招く独裁への道―』(濱野大道訳、新潮社、2018年)によると、民主主義においての「規範」とは非常に重要な意味を果たすらしい。

 規範とは、たんなる個人的な習性ではない。それはたんに政治指導者の善良な性格に起因するものではなく、特定の共同体や社会のなかで常識とみなされている共通の行動規則である。それらのルールはメンバーによって受け容れられ、尊重され、順守されている。ところが明文化されているわけではないので、うまく機能しているときにはとくに見えにくい。そのため、私たちは規範など必要ないと勘ちがいすることがある。しかし、それはまったくの見当ちがいだ。酸素やきれいな水のように、規範の大切さは、それがなくなるとすぐに明らかになる。規範が強い社会に住む人々は、違反行為に対してさまざまな不満の態度を示す――首を横に振る、嘲笑、世論の批判、追放。そして、規範に違反した政治家はその代償を払うことになる。(位置:2,260、太字下線は引用者)

 この規範がうまく機能しなくなると、どうなるのかということについてはあまり深く考えたくないが、同時に我々はすでにそのような状況下に置かれているような気もしている。

 冒頭の話に戻るが、礼を極限まで切り詰め、内容が不在であるために、さらなる効率化を図った結果として最後に残っていた形式すら破棄し、そこに支えられていた人間性を次第に手放している、というような。しかし同時に、この形式が担っていたのは特定の地域や人、物、関係性におけるしがらみであるはずで、そこから離れるという意味での自由はあるのかもしれない。

 私はここで短絡的に礼を復権するべきだということを言おうとしているわけではないのだが、かといって技術的にこれを解決すべきだとも思わない。例えば中国やシリコンバレーの人々が実践し、考えているような形で善悪を定量化すべきだとも思わないし、部分的な解決策にしかならないだろうと思う。

 規範には他者への想像力(の不足)を補うための形式性があるように思う。それは良い意味でも悪い意味でもあるようにも感じられる。その欠落は他者への想像力の欠落をも意味しているのかもしれない。この他者性との向き合い方、想像力(そしてその想像力の限界)、知ろうとすること、知ること、分からないこと、分かり得ないこと、その感触、感触の不在、その辺りにヒントがあるような気がしている。