Outside

Something is better than nothing.

異常時といくつかの断片

fragment

 新型コロナウイルスに係る各種の対応で疲れ果てている中ではあるものの、私の仕事が緊急事態宣言を受けての自粛要請のあった業種ではないがゆえに、延々と働き続け、四月という平常時であっても異常なくらい忙しい時期であるにもかかわらず、異常時にあって異常なくらいに忙しい時期になってしまった、ということは記憶しておきたい。書店で何か気の利いた批評でもするかと本を繙こうと思えば、書店は閉まっているしそもそもAmazonですらKindle本以外は入荷未定になっていたりするので、仕方なくペスト (新潮文庫)……ではなく、ペスト (中公文庫)Kindle版を買ったりする始末であったのだが、それを読むような気力はペスト禍ではなくコロナ禍(しかしこれを「うず」とは読まないのだ、というような記事すら目にする始末で、それもコロナ禍以前にどうなのか、と思わなくもないのだが、つまりコロナの「渦」であったとしたら、それは遍く人々が巻き込まれるがゆえなのだ、とくらい言い返せるならば納得もしよう)の状況ではなく、数年前に買った金井美恵子猫、そのほかの動物 (金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 2 (全4巻))を読んで、異常時にあって平常時のささやかな跳躍を垣間見せてくれるような猫の平穏さに心を馳せて緊張を解すのだったが、それにしてもコロナ禍の終息ないし収束は訪れる気配もなく、緊急事態宣言の延長可否についてもGW中になるかもしれないという待ち焦がれるというよりは今後の業務運営上の輻輳を見据えた恐怖感しか抱かないので、これはある意味で自粛を本来とする政府ないし自治体の思う壺なのではないかとも思うのだが、しかしそれは不可視のウイルスと未知の病に対するものというよりは既知の問題であったはずなのである。

 ところで、アフター・コロナだとか歴史の中にいるとか、あるいはその他の言説を目にしていると、未だ終わっていない事態に対する繊細さの欠如といったものを感じずにはいられないのだが、今この瞬間に何も解決されておらず、そしてこの瞬間において苦しむ人々がいる中で、「歴史」というものにまつわる七面倒臭さとその厳かな傲慢さについてやや苛立ちのようなものを、例えば仕事が遅くなってほとんど誰もいないに等しい地下鉄の一車両に乗り込みながら不衛生なスマートフォンの小さな画面を前に溜息をつくことになるのだが、そんなときでもささやかなひとときというものは訪れて、それは例えば星野源を聞きながら「恋」が流行ったときの新垣結衣は可愛かったなあと思いを馳せるときのことなのである。

 ただこの数多の言説の中でも、やはり読んでおいてなるほどと思う記事はいくつかあり、例えばそれは「『平常に戻る』ことはない」と題されたイギリスNESTAのレポートを翻訳したものであって、これは確かに今後の某かを考える際に非常に興味深いものであった。

 ここで述べられた事柄の真偽など誰にも判定しようがないので、あくまでそれを読み、各々の知見によって解釈していくしかないのだが、このコロナ「渦」によって我々の社会分化的文化的政治的法的技術的環境的な「世界」というものはぐるぐると巻き込まれ完全に変わってしまうがゆえにコロナ禍なのだ、ということを考える。

 私はこのコロナ禍について楽観的というよりは悲観的ではあるものの、それは地政学的なものであって、巨視的な視点に立てば多少なりともは楽観的に考えているのは事実で、しかしそれは歴史という現在起こっている出来事を過ぎ去ってしまったものと錯覚するような耄碌とはまったく異なるものであるとは言い添えておきたい。

 個々人の「自由」に対する束縛が、自粛という形で、例えばこの「粛」は当然に粛正や粛清に繋がるようなどことなく白い暴力的なイメージにも繋がる言葉によってもたらされ、それが常態化しかねない現在時というものが、果たして公衆衛生的な観点のみから見たときに合理性はあったとしても倫理的なのか、ということについては、たまたま本日読んだ歌舞伎町のホストたちに対するホストクラブへの「経営姿勢」という記事でも感じられた。

 一方で、他方で、という見方が存在することは重々承知であり、その上でこの舵取りについてはもはや政治的な判断(例えば医者や医療系、感染症系研究者等がすでにメディアで「政治的」「経済的」な発言を行うことがあまり不思議ではなくなっているが、本質的には責任を持たない/持てない分野であったはずである)が前提であり、前掲の「『平常に戻る』ことはない」に戻れば、「オヴァートンの窓」(人々が政治的な思想等を許容できる範囲)はとてつもなく広くなる。

 今のところ、というよりはいつのときも我々はヴォルテールに習えば、「自分の畑を耕すしかない」(カンディード (光文社古典新訳文庫))のであって、ともすれば見失いがちの「自分の畑」を耕すために、来たるべき時に備えて鍬を磨いておくしかないのかもしれない。