Outside

Something is better than nothing.

編集の効果

Film Editing

 フィンチャーの『ファイト・クラブ』の中で、ブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンは完成されたフィルムの一コマ、意図されざる一瞬の中に、男性器を挿入することで資本主義社会における反抗を試みるわけなのだが、単純化して言えば、これはあらかじめ存在する物事に対する「編集」ということができるのかもしれない。

 私は長らく編集と無縁に生きてきたような気がするし、ある意味で最初期から編集と向き合ってきたのかもしれないのだが、私は常にあくまで作り手なのだという気概はあった――たとえそれが無意味なものだとしても。

 ボルヘスは基礎的な批評として、図書館の配架について触れていた覚えがあるが、あるものを別の場所に配置した結果として生じる効果を編集(多様な編集の定義の一つとして)と呼びうるならば、私にも覚えがある。批評は同時に編集であり、その分類行為が結果として順序を生じさせ、あるものを別のものよりも前に、あるいは後ろに配置することを決めるとき、そこには編集の効果が生じることとなる。

 少し前にエッセイをまとめたものをアーカイブするために編集を施した。その際、私は自分のエッセイを4つの分類により、整理していった。その4つは恣意的な分類ではあるものの、概括したときにまとまっているように感じられたのだ。

 結果として、非常に整理されたアーカイブを作ることができた。作った当初としては満点を上げたいような、そんな出来映えである。これである時期における、特定の分類に基づいた自分のエッセイを概観し、あるいは読み直すことができる、と。

 ところで、最近、私は疲労のあまり自分の書いたものばかり読み返していた。小説は元より、エッセイも、である。そうして、この戦略的な分類に基づいたエッセイ集を読み返す段に至り、思いのほか編集の効果が関係していることに気づいたのだった。

 時系列順になっていないそのエッセイ集は、結果として読み返すと微妙にリズムが狂っているのだった。個々のエッセイの中でリズムは狂ってはいない。小説集だとそんなことはなかったのだけれども、生活に基づいたエッセイをまとめたものを読み返したとき、そこに時間の営為がすっぽりと抜け落ちてしまっていた――それは時事的なものを扱ったものでさえも、そうなのである。

 これは結果として編集に失敗したのだ、と私は数年越しに思った。当時は戦略的に有効性を認めていたその編集の効果が、時を経ることによって無効化され、また同時に本来持つべきであったリズムを喪失するに至っている。