Outside

Something is better than nothing.

碑銘の言葉

Cerberus

 横光利一の小説に「夜の靴」というものがあって、たしか私の記憶が間違いでなければ『旅愁』後、つまり戦後の作品であったような気がするのだが、もうすでに筋書きはほとんど覚えていないのだが、その中に「篆刻の美は死の海に泛[うか]んだ生の美の象徴ではなかったか。」(夜の靴 微笑 (講談社文芸文庫)、P.159-160)という一文があり、その「篆刻の美」と「死の海」がどうして結びつくのか、読んだときには気がつかなかったのだが、もちろんこの篆刻というのは印章を思い浮かべもすると思いつつ、最近、堀口大學の『月下の一群』を読んでシヤルル・アドルフ・カンタキユゼエンの「碑銘」に差しかかって内容に面白がっているときに、ああ、横光のあの一文はここに行き着くのかしら、と思ったのだった。

 詩文に曰く、

 来た時よりはよくなつて私は帰る、
 裸で生れて来たのだがいま着物きて死んで行く。

 (訳詩集 月下の一群 (岩波文庫)、P.553)

  というもので、私はこれを読んだときに直截に横光を想起することは決してなかったが、とちらかと言うとギリシャやローマの戯れ言の一つである、

余は汝がいずれなるであろうところのものにして,かつては,汝が今かくあるところのものなりき.

ギリシア・ローマ名言集 (岩波文庫)、P.167)

 を思い出したくらいで、その後にもちろんモンティ・パイソンの傑作映画であるというか、そのテーマソングが好きな(ブレイディみかこの紹介もあって)『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン 完全版 (字幕版)』の中の「Always Look on the Bright Side of Life」と結びつけて頭の中でひとしきり楽しんだ後に、傍にいた妻に「俺の葬式のときにはこの曲、墓碑銘には月下の一群のこの詩をよろしく」と言っていたのだが、その後、ふと横光の「夜の靴」を思い出したのだった。

 で、この「篆刻の美」というものは、印章における篆刻というよりは墓石に刻まれた文字ということになるのかもしれないのだが、それが確かに「死の海」に結びつくのは当然だとして、これに浮かぶ「生の美の象徴」とはいかなることなのか。

 結果としてこの死者のための墓石に刻む文字は生者にしか為し得ないからだ、というところが一つの解釈であるが、先の詩文に結びつけていけば、来たときは何もなく、行くときは墓石に名前を刻まれて逝くのだ、といった風な意味における生者の美、ということではなかろうか。無数の死者たちが漂う海で、何ものであったかを刻みつけた証として、それは美の象徴としてあるのだ、といったような。

 しかし、『月下の一群』の中にはヴァレリーの「失われた美酒」もあって

これは美酒を海に捨てる様を虚無への「供物」とするような態度であるのだが、そういったとき、この篆刻の美とは果たして。