Outside

Something is better than nothing.

義とは?

 高校生から大学生の頃だったと思うが、太宰治新潮文庫から出ている文庫本を順番に読んでいたことがあり、『ヴィヨンの妻(新潮文庫)』まで辿り着いて、そこに収録されている「父」を読んだ。

 冒頭はこのように始まる。

 義のために、わが子を犠牲にするという事は、人類がはじまって、すぐその直後に起った。(太宰治「父」、『ヴィヨンの妻』収録、新潮文庫、P.56)

 物々しい冒頭であるが、ストーリーの流れはというと、現代的に零落した内容となっており、言わば付き合いのために家庭を犠牲にする、といった案配のもので、この付き合いは不倫も射程に入っている。

 家族に対する無責任さは例えば以下のようなところに現れている。

「きょうだけは、家にいて下さらない?」
 と家の者が私に言った。
「なぜだ」
「お米の配給があるかも知れませんから」
「僕が取りに行くのか?」
「いいえ」
 家の者が二、三日前から風邪をひいて、ひどいせきをしているのを、私は知っていた。その半病人に、配給のお米を背負わせるのは、むごいとも思ったが、しかし、私自身であの配給の列の中にはいるのも、頗るたいぎなのである。
「大丈夫か?」
 と私は言った。
「私がまいりますけど、子供を連れて行くのはたいへんですから、あなたが家にいらして、子供たちを見ていて下さい。お米だけでも、なかなか重いんです」
 家の者の眼には、涙が光っていた。
 おなかにも子供がいるし、背中にひとりおんぶして、もうひとりの子の手をひいて、そうして自身もかぜ気味で、一斗ちかいお米を運ぶ苦難は、その涙を見るまでもなく、私にもわかっている。(P.62-63)

 とあるのだが、ものの三十分あまりで以前に付き合いのあった人物がやってきたということを聞いて出かけていき、その女性とともにアパートへ移動する中で、配給の列に並ぶ妻の姿を見つける。

 いた! いたのだ。半病人の家の者が、白いガーゼのマスクを掛けて、下の男の子を背負い、寒風に吹きさらされて、お米の配給の列の中に立っていたのだ。(P.68)

 その後、「上の女の子」が「私」を見つけるのだが、「母は何気無さそうに、女の子の顔を母のねんねこの袖で覆いかく」(P.68-69)すことで、双方気づいている状態で、父はそのまま歩き去って行き、女性のアパートの中で何名かの女性とともに酒を飲み牛鍋をつつき雑煮を食べ、寝て、帰ることになる。そして、

 義。
 義とは?
 その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗五郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。(P.70)

 という形で終わることになる。

 書かれている内容それ自体に共感はあまりないのだが、なんとはなしにその文体のリズムや、例えば最後に引用した「義とは」のリフレインが心地よい印象を持っており、内容の悲惨さに比べて、嫌いではない短編ではあった。それはこの文庫本の最後に収められ、太宰の絶筆ともなった「桜桃」の中にある「子供よりも親が大事」という言葉にも通じている。

 その意味するところの真髄、のようなものは私には分からないのだが、けれども口ずさむ感じ、口唇性に優れているとでも言おうか、そういった感じが好みで、やはりこの「桜桃」も好きなのであった。

 この例えば「父」にあるような、「子>親」となるような一般的な感覚を逆転させる「子<親」の感覚を、義という社会性・使命に寄せて描くことで、その狭間に引き裂かれる家族関係や矛盾を書いている、ということは単純に言えると思うのだが、実際に子供を持って、引き裂かれる感覚が分かるようになった気がするのだった。

(以下は、父という存在を社会に働きに出て、労働の対価として収入を得ている者として捉えており、子をケアする存在の母と対置しているが、性別上はどちらでもかまわないし、両親それぞれに父性、母性があるかとは思う。あまり両者を峻別せずに使っており、私の用法も胡乱な部分があるかと思う。)

 というのも、我が子が可愛い、という動物的な、あるいは本能的な感覚が前提になければ成立はしないのだが、その前提を踏まえた上で、一緒にいたい、という気持ちが湧き起こる。しかしながら、子を養育するためにはよほどの不労収入や財産がなければ働かなければならない。しかし、働くためには子別れを日々行わなければならず、持続的に働くためには自身の市場価値を向上させ、あるいは労働時間内の能率を上げ、早期に帰宅するためのスキルアップを図る必要がある。

 新型コロナウイルスの影響であまり頻度は多くないが、社会生活を送る上での人間関係の維持ないしその向上は、仕事との直接的な関連はない場合もあるものの、その直接的な関連がないことそのものに人間的な価値を見出され、結果として何らかの形での参画を行うインセンティブとなる。

 したがって、子を可愛がろうとすると、そのパタニティの持続的な/反復的な達成のために必然的に子別れを行わなければならず、また、その儀式がまた子自身の自意識や他者への眼差しといった精神的な成長にも繋がるものと思われる。

「父」で描かれているのは一種の突出した極端な子わかれの場面なのかもしれないし、言わば悲劇を喜劇的に描いており、また父側の倫理的な問題点を抱えていることから父に対する共感を得づらい構造になっているのかもしれないが、アブラハムや宗五郎の挿話が引用され、「私」と併置されているように、ここにはあらゆる父の偶像が想定されている、のかもしれない。