人々はある時期を過ぎると、自分の恋愛がひと段落したのか、それとも自分の恋愛がどうあっても成就し得ないものだと理解したからか、なのか分からないのだが、他人の恋愛に熱中し始める。ただしこれはすべての、という言葉を冠するには、あまりにも範囲が広過ぎるようにも思うし、けれども私は、と書き出すとあまりにも範囲が狭過ぎるような気もする。熱中と書いたが、それは当事者の熱量を凌ぐものでは決してない。けれども、自分の抱えている些事への熱量と比べると、明らかな相違がある。私はよく彼らと話すたびにその一瞬の熱量について首を傾げざるを得ない。一体、これはどういうことなのだ、と。
西村取想『四百センチ毎秒の恋』(NT書房、2019年)はそういった詩集――短歌集である。私はこの貴重で、瑞々しい「他人の恋愛」の塊のような代物を偶然知り得たが、いざ自分がこれを購入までして読んでいるのかというと、他人の恋愛への熱狂があったからだ、としか言いようがない。ここでの西村/Kの恋愛模様は自分の人生にいささかも関係ないものだし、これからも関係しないだろうが、(西村の)短歌と(Kの)短評とが絶妙なリズムを作り出して一つの音楽のようになっている。それはふられた男とふった女という単純な関係性に留まらないものだろう。
(詳細はあまり知らないが)歌垣というものも一つこのような形にあったのではないか。男は延々と歌を詠み続け、それに応える女はただただ男を挑発していく。もちろんKは歌人ではないのだから歌を詠む義理はないのかもしれないのだが、西村が延々と歌を詠んでいるひたむきさは、古代の歌垣のような、言霊を用いる様を想起させる。
ところで、誰が言ったのかは忘れたが、創作者として何かを書く際に意識せざるを得ない言葉が一つあって、それは詩人が詩を、とりわけ恋愛についての詩を書くとき、明確な対象者へ向けて書くよりも、女神や天使といった不明瞭な対象に向けて書く方が出来が良い、という言葉であった。本邦においてしばしば詩とは親密なコミュニケーションの手段であったということを考えるときに、この「文学」の言葉は一つの警句として重たく響くように思われる。
西村の試みは部分的に成功しており、部分的には失敗している。金山仁美は解説の中で「短歌としては不出来だろう」(P.94)と、一部の短歌を評しているが、それは素人目にも何となく分かる類の失敗だ。ただしその成否は必ずしも文学的にのみ評価されるのかという点は(解説の金山の射程にもあるように)留保が必要だろう。この本は短歌を超えて小説/エッセイのような代物となっているところで、一つの評価軸に収斂していくのは難しいのかもしれない。
一つ一つの短歌を評する能力は私にはないが、最後に気に入った短歌を一つ引用したい。
砂浜にできた存在証明を波より先に壊しあったね(P.45)
一瞬意味が取れなかったのだけれども、ああそういうことかと思った瞬間に、何か思い出を喚起するものがあったのだろう、頭の中に閃いて消えた。西村/Kの応答は、長い人生の中では一瞬の「存在証明」に過ぎなくて、やがてどちらかが自発的に壊さなくとも波が自然と壊してしまうものなのかもしれないのだ、という年寄り臭いことを言い添えたくなってしまうのだが、実のところ私たちはその存在証明を他人に求めることができ、その他人の存在証明が発する熱を受け継ぐことができる。
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