Outside

Something is better than nothing.

性欲と倫理観

 人との接点を持つと、思いがけないことが外からやってくることがあり、そのことにより少なからぬ影響を受けることがある。人と話すことに苦痛を覚えながらも、自分自身の傾向として他者から影響を受けることが多々あるためなのか、少しの社交性を発揮することで、流れ込むように自分の中での変化のようなものがやってくる。

 少し前に、『文藝』の恋愛特集をなんとなく読んでいたときがあり、遠野遥の小説を読むついでにマッチングアプリを始めとする恋愛事情を詳しく知りたいと思って、評論を読んでいた。私はこれを使ったことはないのだが、その動態については興味があり、婚活業界も射程に入れて興味を持続させていた。

 もう十年以上前に、川上未映子の「私たちの恋愛は瀕死」を読んでからだろうか、あの小説の中の物語というよりも、このタイトルの突拍子もない、しかし本質を突いたようにも感じられる勢いによって、私の何かは貫かれてしまったのだろうか。

 遠野遥の小説はどことなく倫理観がおかしい。それは人間のちぐはぐさが、そのままちぐはぐなまま形だけ表面的にそれらしく整えつつ、行動原理そのものが表面のために存在している、というような類のちぐはぐさであり、そこに欲望があるようにもあまり感じない。生理的欲求は発散することになるし、そのための努力も行うが、しかし繋がったまま延々とM-1グランプリの話をされるくだりを読んでいると、いや、確かにそういった類の出来事自体はありうるし、そこに暴力的な行為はないものの、しかしそれは果たして何のためなのか分からなくなってくる。

 川上の小説にはまだ欲望を感じられた。そこにディスコミュニケーションがあったかもしれないし、そもそも始まることのなかったコミュニケーションがそこにあったのかもしれないし、その果ての暴力的な結末だったのかもしれないのだが、しかし、それでも。

 誰かと誰かが性的に繋がるとき、それはセックスと呼ばれる湿っぽい暴力の気配はなく、アプリによって介在されるシチュエーションシップといったリレーションに陥っているのかもしれないのだが、それが果たして陥るべきものなのか、オープンリレーションシップを受けいれていくようなものなのか。モノガミーとポリアモリーの境界を彷徨いながら、欲求の強弱を発情期の存在しない、ただ月経周期による可否によって行ったり来たりすることの倫理観。

 不特定多数と同時並行しながら、新しい相手を貪欲に求めていき、その求めた相手の実像はあやふやで次の瞬間には消えてしまう。恋人、婚約、結婚、出産、育児、といったライフステージによる一種の暴力的な規定が、シチュエーションシップとの親和性はない。若さはいつまでそれを担保させるのか分からないけれども、責任が待ち構えている。