Outside

Something is better than nothing.

『軽い男じゃないのよ』(2017年)

 エレオノール・プリアの『軽い男じゃないのよ』を観る。Netflixオリジナル。

 ダミアンは女たらしで独身を貫いていたのだが、ある日友人と一緒に道を歩いているときにポールにぶつかり意識を失うと、男女のジェンダーが逆転した世界に迷い込んでしまう。そこで、元の世界でくどこうと思っていた女性と出会い、しかし女性側は元の世界で言うところのプレイボーイで、本気になってくれない。小説家として女性はダミアンの存在を面白おかしく描こうと思っていたのだが、恋の駆け引きの中でだんだんと本気になる。ダミアンは結婚を彼女に申し込み、彼女はプロポーズを受け入れるのだが、彼女はすでに結婚しており、その行き違いからダミアンと彼女は喧嘩し、頭突きを食らわすに至り、ふたたび世界は元通りになる……かと思いきや、彼女の方もまた男女逆転世界に行ってしまうのだった。

 平たく言えば、ジェンダーであったり性差別であったりという、この生まれ持っての性別(ついでに言えば、逆転後の世界にもきちんとLGBTQの存在に触れられているところは感心した)にまつわる厄介ごとが、そっくりそのまま逆転してしまったという世界になるのだが、これほど奇妙で歪なものだとは思いもよらなかった。

 ある程度の想像はついていたのだが、映像として見せられたときのグロテスクさというものはあって、つまるところ日常的に男性が女性に対して意識的にせよ無意識的にせよ行っているさまざまな(欲望に基づく)行動が、いかにおぞましいものなのか、ということを見事に描き出している。

 例えばちょっとしたからかいだったり、視線だったり、あるいはセクハラだったりするものが、権力や暴力を潜在的に持つことを許された一方から、被支配側にいることを暗黙に求められる他方へ、さも当然という顔をして展開される。これは本邦で言えば痴漢の問題にも繋がるだろう。

 その上で、逆転した世界において、元の世界の男性的なジェンダーをそのまま恋愛に適用しようとしたときに、その世界における「男性っぽさ」からは逸脱し、最初ダミアンはLGBTQのコミュニティに連れて来られるわけになる。これはなかなかに興味深い現象だった。

 もちろんこの「男性っぽさ」というものは、例えば無駄毛の処理や服装に当然求められるわけで、我々の世界における恣意性の蓄積が、逆転後の世界においてはグロテスクなものとして表出することは上手いと思った。

 その上で、結末は女性側がダミアンの世界に突入するところで終わるのだが、なんとなく悲劇的なものを予感せざるを得ない。