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Something is better than nothing.

上下運動を思い出す

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ユリイカ

 以前にポーの『ユリイカ』を読んだときに上昇と下降の二つの様式について触れた箇所があり、その実際の読みについて私の解釈が妥当なのかどうかはさておき、面白い着眼点だと思ったのを覚えている。ポーの「大鴉」を、ポー自身が述べたように作られた、と考えるわけにはいかないし、またこの『ユリイカ』にどのような評価が下されているか、私は正直なところ知らないのだけれども、何かを、特に小説について考えるときに、どこかこの「上昇」と「下降」ということを起点に考えることが多くなったように思われる。

 とはいえ、一度読んだだけであるこの本について、これ以上何かを述べる言葉を持たないのだが、けれども読んでから十年近く時間が経ったときに、元々あったはずの意味内容が失われ、単にその辛うじて存在する記憶のみが上昇と下降の二様式の存在を思い出させるのみであるとき、その意味内容は本来『ユリイカ』にあったものとは別の展開を見せることになる。

 もちろんこの文学上の観念を政治や社会に直截に結びつけることは妥当ではない。試みとしては面白いかもしれないが、それはあくまで机上の論理であることを免れない。けれども、この上下運動を考えたときに、私が思い出すのは昨今よく言われるようになった右でも左でもなく上と下といった言葉であり、それが言葉である以上、私はいともたやすく『ユリイカ』を思い出すこととなった。

 記憶とは不思議なものだ。

上下運動

 枝野幸男率いる立憲民主党が第48回衆議院議員総選挙において55議席獲得という躍進を遂げた。しかしながら自由民主党は261議席を獲得し、公明党と合わせると与党で憲法改正の発議が可能な310議席を超えた313議席を獲得している。

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 慌ただしい解散の後、小池百合子排除の論理が目立った希望の党の不気味な動きがあり、かなり暗澹たる気持ちに苛まれながら、枝野幸男立憲民主党を結党した。そのときに彼は右でも左でもない、ということをしきりに言っていた。

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 私たちの生活において、たしかに右でも左でもないことの方が多いのではないか、と思われる。私はイデオロギーとして右も左も何も信じられないような気がしているし、むしろ剥き出しに暴力的になった「経世済民」を忘れた経済の前では、果てしない転落の可能性を想像してしまう。

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 すでに私たちには上下運動しか残されていなかったのだ。それもかなり一方的な意味において。この上下運動において前提とされるのは、球面ではなく平面の上下であるような気がしている。というのも、そこにあるのは球体を前提とした世界観ではなく、その端には虚無か何かが広がっている平面があるのではないか、という気がしている。グローバルな世界は物理的には球面を前提としているが、感覚的には平面上の世界において起こっている、と言おうか。

 だからその上下運動が引き起こされる世界においては、どこかしらその果てというものは完全に内と外に分かたれている。だから安易に排除が起こるのだろう。これが球面であるのならば、出て行った果てにはまた同じ地点が待ち受けているのだ。

 もちろんこれはあくまで私の感覚に過ぎないのだからどうだっていい感想ではあるのだけれども、そういった状況の中で立憲という教科書の中で古めかしく踊っていた単語が、また再度、非常な重要性を持って現代に現れてきたということは新鮮な驚きだった。

 とはいえ、貴重な55議席でありながら、同時に313議席という数の前ではたかだか55議席でもある数だ。もちろんこの数の重要性は今後の党の運営次第だとはいえ、願わくば、世の中全体が分断を修復し、対話可能性を取り戻し、なおかつそれらが平和裏に進むことを、と一市民は考えるのだった。