Outside

Something is better than nothing.

それ自身を生きられたもの

 引用にしようとメモしていた言葉たちを整理していると、保坂和志の「生きる歓び」の中のある一文が目に留まった。

「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側を主体に置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。(保坂和志「生きる歓び」、ハレルヤ (新潮文庫)所収、Kindle位置: 1,605)

 こういった力強い生命の肯定を目にすることはややもすると珍しいことのようにも感じられる今日この頃であり、生命というものはそれ自身が「歓び」であるという言葉は何か途方もないエネルギーを内包しながら、そこにあることそのものが「善」であるという志向性を持っている。これを猫を前に思う保坂の小説についての感想をここで述べたいわけではない。

 子を持つと思うのは、こういった意志の力強さそのものを前にして、私たちはただ戸惑うことしかできないのだ、ということの受動性であって、この生命の輝きを前に、私たちはただ仕えることしかできないように感じられる。子どもが大きくなり、ひとりで歩くようになり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、彼の意志に基づくまま行きつ戻りつするこの生命は、しかしおそらく無邪気にその足をどこかに向かえていくのが楽しいだけであって、何か深遠な目的があったり、誰かを陥れようとする悪意に満ちているわけでもなく、ただ歩くことそのものを楽しんでいる。

 世界にとって、彼の歩行の可否は何ら問題にはならないし、第三者にとってもそうだろう。しかし彼にとっては、それ自体ができるということが何よりも喜ばしい事象であり、それを見守る私たちもまた同様でもあり、疲労の原因でもある。不思議なものだ。

 まだ彼には意志がないように思う。それは彼の脳髄から発せられる電気信号の複雑性のことなのかもしれないし、もっと非生理学的に言えば、欲望の発揮する先のことなのかもしれない。おもちゃにもならない紙片を口に含んでは精一杯の表情でそれを破って悦に入る彼の無邪気さ。