Outside

Something is better than nothing.

愚かさの共有

Smell the ocean and feel the sky.. let ur soul and spirit fly ♡  #myview

 星野源の「くだらないの中に」という曲に、

髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさいなあってふざけあったり
くだらないの中に愛が 人が笑うように生きる

 という歌詞があって、思い出すたびに少しクスっとするのだけれども、この歌詞に近似した経験は確かにあるわけで(ない人もいるのだろうけれど)、こういう愚かなことを互いに平気でし合って平然と生活というものが続いていく、ということに夫婦関係の尊くも七面倒臭い側面があるのだろう。


星野源 – くだらないの中に (Official Video)

 男女の親密な仲のことを「臭い仲」だとか言ったりもするはずだが、その直截な語句の持つ意味とは別に、その射程にあるものと言えば、おならであったり排泄であったり、あるいは口の臭さ、体の臭さであるはずである。人間とは、そこに「性」がつくことで崇高が備わるような趣もあろうが、しかしまず間違いなく「臭い」存在であることは確かだ。

 オーウェルの「スペイン内戦回顧」というエッセイに、このような言葉がある。

 戦争に必ずついてまわる経験のひとつは、人間の体に由来するむかつくような悪臭から決して逃れられないということである。
あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫)、P.105)

 オーウェルは「むかつくような悪臭から決して逃れられない」と書いているのだが、かといってこの悪臭を排除しようと考えるとき、人は強迫的に清潔を保とうとする潔癖症として、日常生活に支障を来すことになる。

 男も女も当然に人間である以上、悪臭からは逃れようがないのだし、男女のむつみ合う最中に、頭の臭いを嗅いで臭いなってふざけうならまだしも、屁をこき合うということもあるはずだろう。これは動物行動的にはどういう意味づけを持つのか(マーキングとか?)多少知りたいような気もするのだが、私はこの親密な関係性をひとまず「愚かさの共有」とでも名づけておきたい気がする。

 この人間の愚かさを共有し合うことがなければ生活というものは成り立たない。あらゆる意志決定に合理性を持ち込むことは実質不可能であるのだから、ここに愚かさが忍び込む余地がある。

 人間「性」の中の崇高さとは裏腹に、この「性」の中にも愚かさはあって、数多のセックスにそれぞれのおかしみがある。語源こそ詳しくは知らないが、例えば艶笑という言葉には艶やかさの中の笑いということだけれども、そういった話の中に独特の滑稽さがあるだろう。

 性欲に突き動かされた結果としてある、ふたりの睦み合う様には、日向ぼっこをする猫のようなほのぼのとした感じがあるのだけれども、そのふたりの中に信頼関係がなければ、例えば真夜中の終電を逃した駅近くで、延々とラブホテルに行く行かないのせめぎ合いと同じようなおかしさと愚かさがある。

 さまざまな冗談やからかい、唐突な真剣さと駆け引きが含まれているだろうが、結果的にはここに含まれる愚かさを共有できないことには先に進めない。そしてその共有した果てには、無臭ではいられない、オーウェルの射程とは別の意味かもしれない悪臭があって、それは酩酊によるアルコールや嘔吐の臭いかもしれないし、性器の臭いかもしれない。