Outside

Something is better than nothing.

学ぶことの射程

Studying

 少し前から読書猿の『独学大全――絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』を、その名に相応しからぬ最初から最後まで読もうとする方法で読んでいるのだが、しかしそれでも面白い。まだ半分を少し過ぎたところであるのだが、血肉化できているかと言えばそこまでできていないように思う。私は元来なまけもの気質で、どちらかというと勉強などしたくはないのだ、だからこういった独学を志向する本など、本来の読み手の射程には入っていないのだ。

 とは思わないにしても、こういった本を読むとどうして自分は勉強しているのか、何かを学ぼうとしているのかと不思議に思ってくる。そしてそのモチベーションはいつも前向きにあるように思う。

 例えばクリント・イーストウッドがどこかの講演か何かで、 「You're never too old to learn(いくつになっても人は何かを学ぶことができる) by クリント・イーストウッド」(町山智浩教科書に載ってないUSA語録』(文藝春秋、2012年))と言ったとき、われわれはこの言葉を前向きに捉えるだろうと思う。また、私ならばこの言葉は『正法眼蔵随聞記 (岩波文庫)』の中に、たしかいくつになっても仏門を志すことはできるのだ、といった言葉と結びつく。

 学びの可能性というものは、いつ何時であっても人は変わることができ、あるいは自らを救済することが叶うのだ、ということなのかもしれない。

 もちろんその中には労働市場における自らの価値を高めるといった射程もあるのだろうし、同時に自分の趣味の高度化を図りたいというものもあるのかもしれない。また、社会変遷に伴い、価値観のアップデートを図るため、というコモンセンスに関係する部分もあるのだろう。

 なぜ学ぶのか、という「なぜ」の問いかけは、永遠に答えが出ないものであると同時に、その答えの普遍性はどこかしら担保されている気配がする。その気配に向けて、我々は学ぶことの可能性を賭けていくより他はない。

 話は変わるが、私は学問であったり勉強であったりを考えるときに、どうしても舞城王太郎の小説の一節を思い出す。

《全体》の中にいなかったら何を勉強していいか決められねえよ!
舞城王太郎「すっとこどっこいしょ。」(『キミトピア』、新潮社、P.164)

  しかし、この場合「全体」というのは何のことなんだろうか、とも思う。けれども、この「全体」によって担保された学びの可能性ないし射程といったものが、時として苦痛でしかない勉強の連続を最後まで耐え忍ばせるものであるのかもしれない。