Outside

Something is better than nothing.

同化と異物

知らなかった歴史

 少し思うところがあり、長いスパンを設けてではあるのだが、戦時中の朝鮮半島近辺の歴史を学ぼうかと考えているのだけれども、その手始めに後藤明生の出自(「引揚げ文学」の射程から)について気になった。これについては、現在、東條慎生が季刊『未来』にて「後藤明生の引揚げ(エグザイル)」として連載されているらしいので、この連載が何らかの形で纏まるのを待っている。

 以上のような怠惰な読者っぷりなのではあるのだが、とにかくこの「引揚げ文学」という視点は私にはなかったものなので、初めてこの視点に気づいたとき、驚くと同時に自分の、歴史に対する無知を恥じ入った。また、この「引揚げ文学」については、朴裕河の『引揚げ文学論序説』の中で知った。 

歴史の中の虐殺

 数ヶ月前に、『過去改変』という小説を書いた。初めての長編となった作品だったが、この中で関東大震災を扱った第二章があり、関連する文献を読んでいく中で王希天事件という中国人虐殺事件を知った。この小説自体は「流言蜚語」についての多角的なアプローチを基礎としているところがあるので、震災下の東京において、朝鮮人虐殺を始め、一体何があったのか、ということを描き出そうとしている企図があったものの、その成否についてはここでは脇に置こう。

 特に第二章においては、ある銀行員の挿話が個人的には気に入っているし、未だに引っかかりがある。これは鈴木淳の『関東大震災』(講談社学術文庫)に書いてあった話を少しアレンジしたのだが、その銀行員はいたって冷静に震災に対応していたのだが、ある条件下において朝鮮人たちに暴力を振るっている。その心理状況は辿っていくと、ある一定の理解を示すことが人によってはできるかもしれない――つまり、自己防衛本能というものだ(断っておくが、私はこの暴力を非常に厳密な意味において、肯定しているわけではない)。

 異常な状況下における人間の変貌というものが、虐殺に繋がりかねないし、いや実際繋がっている以上、一体なぜこの状況が生じてしまったのか、ということについて自分なりに状況を整理した上で、「再現」してみたかった。だからこの挿話を入れたし、ある意味で作品全体がそういうものになっていると言える。

「岩本志願兵」

 そういった小説を書いているうちに、私は気づかないままあることを見失っていた。私は無意識のうちに、虐殺された方の、排除された方の無謬性のようなものを前提としていた。しかしながら、その側の心理状態について、きちんとした形で想像できていなかったのだ。せいぜい利己的に味方を裏切るようなレベルでしか想像しておらず、その先にある、もっとグロテスクなものについては、たぶんあえて見ないようにしていた。

 それは小説上の結構がそうさせたのかもしれず、だからある意味で「引揚げ文学」という視点が『過去改変』を書き上げた後の私には必要だったのかもしれない。

 張赫宙の「岩本志願兵」を読んでいるとき、この初めて読む作者の短い小説を読みながら、私は妙に居心地の悪さを感じていた。そしてそれはあるシーンにおいて頂点に達した。この小説は第二次大戦下における日本に植民地化された朝鮮半島において、内地から志願して兵隊となった「岩本」を巡る一挿話を、その軍事教練を見学に来ていた「私」の視点から描くものである。

 私は別に民族的なアイデンティティがどうこうと言い募りたいわけでもないし、さほど「愛国心」めいたものは持っておらず、とりわけ、例えば横光利一が盛んに言い募るような意味合いでの「日本精神」というものの純粋さは奇妙でしかないのだけれども(『紋章』における雁金の「日本精神」を見よ)、しかし往々にして以下に引用する心性に人はもろくも達してしまうものなのである。

「内地から初めて来た人は、内鮮が同根同祖だというが、あんなに違うではないか、と、よく申します。そんな人たちには、是非当訓練所へ来るように勧めます。実物を見て成程と感心します。市井の民衆は白い衣服を着、異った家に住んでいて、顔が違う。ですが、それは永い間大陸に依存していた歴史のために歪められたからであって、子細に観察すると、やはり大和民族と同じであることがわかります。今日の朝鮮的なものから大陸的なものを除くと、純粋朝鮮的なものが残りますが、これは純日本的なものに通じるんですよ。百済高句麗は勿論、新羅でさえ日本的だったんですからね」
「そうしますと皇民化という言葉は、朝鮮の場合には上古還元ということになりますか」
「しかし、単なる還元ではなくて皇民への躍進ですね。同じ根から出た顔が元へ還って、更に同じ皇民精神を把握することによって全く同じものになります。そこで同じ皇国の兵隊になるんですよ」

「岩本志願兵」(『帝国日本と朝鮮・樺太』(「コレクション 戦争×文学」)収録、集英社、2012年、53頁)

 この話者は日本人ではなく、植民地にされた朝鮮半島の中にいた人々が述べているわけである。

 そういえば、先日金井美恵子トークショーに行ったとき、言い換えは権力側であり、言い間違いは民衆(権力ではない方)の側にあるといったようなことを述べていたのだが、例えば「皇民化」を「上古還元」と言っているのは果たして。