Outside

Something is better than nothing.

王朝の歴史

 歴史の指し示すものについて、あまり世界認識としてのズレはないのだろうと思っていたのだが、学問的にはどうやら異なっているようで、最近は余裕があるときの寝る前に東京大学の過去の講義動画を聞いているのだが、そのまま寝落ちしてしまうこともあるので、かなり不正確な認識を積み重ねているのかもしれない。

 中国の歴史観については易姓革命の存在は知っていたが、その内実は疎く、言わば連続性というよりは断絶によって新たな王朝がもたらされ、その断絶の過程を歴史によって物語っているのだと思っていたわけだが、微妙にニュアンスが異なる。

 ある王朝の歴史を後の王朝が叙述することになるが、それは「天」の系譜に連なる君子としての連続性を保つためである——少なくとも概念的には——というところが興味深い。つまり、「天」を治めるのは天帝になるが、現実世界を治めるのは君子になり、その徳性は連綿と受け継がれ、中原に覇を唱えるのは常に一つの君子になる。この際、君子は前の君子から禅譲などによる徳の系譜を連ねることになるわけだが、氏族ではなく徳の連続性が歴史によって担保されている。したがって、この歴史においては必ず一方による他方に対するレッテルが貼られなければならず、それが見直される際も何らかの一つのレッテルが必ず貼られている状態のままである。

 そして中華世界におけるこの中華の概念は、前述のとおり氏族ではなく、この世界観の継承者とその追随者によってなされるものであるため、必ずしも特定の民族がそれを名乗るものではない。

 この「歴史」とは審判と評価を言い表しており、その意味では我々の思う歴史というものと質的にかなり異なっているようである。