Outside

Something is better than nothing.

後ろの曲がり角——あるいは「はてなしはてな?」の郷愁


www.youtube.com

 テレビ東京で平日の朝に放送されている『シナぷしゅ』は、特徴的なキャラクターが前面に出ているものの、その中にウタぷしゅというコーナーがあって、そちらが私としては好みであるのだけれども、そこに志人の「はてなはてな?」という楽曲が放送されたことがあって——と書いたものの、そもそも知ったのはYouTubeチャンネルのウタぷしゅ回を再生しながら適当に観ていたときだったように思う。

 安部公房の『壁』の中に私の気に入ったモチーフがあり、世界の中心は、世界が平面だった時代は明確にあったが、世界が丸くなってからというもの、その中心が遍在するようになった、という記載があったと思うが、ああいうものをこの曲からはイメージする。

 あるいは、遠い過去、私自身の父ではないかもしれない、しかしそれは確実に「父」的な存在であるものから教えられた世界の記憶が喚起される。

かめのこうらと ぞうのうえ
へびはとぐろを まいたふね
ふくらむぼくらのゆめをつめ
なぞをつれてゆけ あおいふうせん
志人はてなはてな?」より)

 子どもの頃に世界に関する絵本だか百科事典だかをイラストだかを見た記憶の中に、世界の端から水が流れ落ちているイメージがあり、この記憶が私には思い出されるものだった。本来ならばそこに亀と象、蛇でもいればよかったのかもしれないのだが、それらがいた記憶はない。

 地球平面説を信じているわけではないし、『ビハインド・ザ・カーブ』(2018年)のある種の社会からの疎外感の原因を、平面性における中心点の訴求のしやすさからだとも思っているくらいだけれども(要するに地に足がつきやすいのだ)、それでも地球が平面だった時代というものの記憶はあるのだ。それが正しいかどうかではなく、「父」なる者の記憶として。

うちゅうでいちばんなやめる
だえんたいの ほしのうた
志人はてなはてな?」より)

 この楽曲にはイメージの喚起する力が備わっているように思うのだった。だから「父」とここでは書いたが、誰かから教わった世界の成り立ち、掟、自然と人間との関係、「わたし」というものの存在の来し方行く末、疑問、果てのない問い。

 聞いたときに懐かしくも遠い感じを覚えた。おそらくこれは、我々が紛れもなく地球に生まれ育ったのと同時に、この果てしない宇宙の中に位置する塵芥にも満たない小さな存在であったことを思い出させるからだろう。