Outside

Something is better than nothing.

『ビハインド・ザ・カーブ』(2018年)

 ダニエル・J・クラークの『ビハインド・ザ・カーブ』を観る。Netflixオリジナルドキュメンタリーで、副題は「地球平面説」。

「地球は平らである」という説を信じ、また「科学的な検証」も行うフラット・アーサーズたちの活動を追ったドキュメンタリーで、同時に物理学者や天文学者等の科学者のコメントや、心理学者のコメントも交えて、批判的に彼らを取り上げる。ただし、批判的といっても、(基本的には本当に批判しているのだが)彼らの背景や、その姿勢を正しく見ようとしており、また見終えた今となっても、私は絶対的に批判を行えるような立場ではないなあ、とは思う。説そのものとしての妥当性は言うまでもないのだが、その姿勢やコミュニティーのあり方として。

 YouTubeを始めとした動画投稿サイトの隆盛やSNSを軸としたコミュニティの形成しやすさが、ある意味で『ファイト・クラブ』で描かれたような現代社会における「筋肉の不在」もとい、「中心の不在」から、地球平面説は盛んに唱えられているような印象を受ける。というのは、第一回の国際大会で彼らが口々に言うのは疎外感や不安感、また社会における位置の不在である。

 私は地球平面説をよく小説に取り上げるのだが、それは安部公房が『壁』の中で、地球が平らであったときには世界には中心があった、だが地球が丸くなってから世界の中心が集約され、地球上、どこにいてもその地点が中心となってしまったのだ、と喝破したときからである。

 NASANSA、CIA、FBIといった米国家機関のさまざまが陰謀に関わっているとされているのだが、もはやこうなるとパラノイアであり、そしてここではナチュラルに中心が措定されている。それは『MGS2』で描かれたようなものそのものだ。

 彼らは決して単に愚かではないとは思うのは、その科学的な証明を行おうとしている姿勢によるもので、対照的に描かれるのは平面説を最初に言い出したとされる男である。彼はもはや完全にパラノイアに落っており、どちらかと言えば社会に害する立場になろうと思う。だが、そうではないグループの方が多い。

 最初に述べたように、これは『ファイト・クラブ』なのだ。破壊と共生、そして疎外。