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真実の真実らしさ

#Truth

 人々はもはや真実の真実らしさといったものについて無頓着になってしまったのだ、といった雑駁なことを記述してみてから、どことなく私の中で、それについての諦めのようなものを感じている。それは例えばこれから書こうとしている、文学を初めとした物事にまつわることのみならず、日常生活において、真実の真実らしさのようなものが、慎重な判定なしに単に有用性のみで判断されているように感じられる、ということについて、だ。

 つまるところ、小説を書く身として、真実というものの持つ七面倒さということは、リアリズムという単語一つを考えてみても分かるように思われる。私は小説について考えているときはほとんど常にと言っていいくらいリアリズムについて考えていたし、その先にある現実や、大仰に言えば真実について考えていた。

 ゾラは「現実感覚」がこんにちの小説家にとって必要だと述べていた記憶があるのだし、その感覚は中村光夫の『風俗小説論』によると、(フローベールにも触れつつ)「『自然』や『真実』はまず何よりも彼等の懐抱する思想であり、したがってその一般性(科学性)はいやでも『他人』(すなわち社会)の上に立証されねばならず、彼等の創作はその立証のための実験」(新潮文庫、P.78)であった、と述べている。この「現実感覚」は他人の上に立証されなければならず、ゾラの自然主義とは、本邦におけるそれとは異なった意味合いを持っていた。

 この他人の上に立証されなければならない一般性を成立させる要は、ルカーチの『小説の理論』(ちくま学芸文庫)から類推すれば、「(…)小説の客観性とは、意味はけっして完全には現実に渗透しえないが、現実は意味なくしては本質を欠いた無へと崩れ去るだろう、という成熟した大人の洞察」(P.108)であるようにも思われる。

 昨今のアメリカを初めとした真実の真実らしさの崩壊については、ミチコ・カクタニの『真実の終わり』に詳しい。カクタニはポストモダンの時期に流行った、意味を極限までに多様化し、無化してしまうところにある、と述べる。

 脱構築主義は、すべてのテクストが不安定で還元不可能なまでに複雑であり、読者や観察者によってますます可変の意味が付与されると仮定した。あるテクストについて生じ得る矛盾や多義性に焦点を絞る(そうした主張をわざと込み入った、勿体ぶった文体で表現する)ことで、極端な相対主義を広めた。それが意味することは究極に虚無的だった。何だって、どんな意味でもあり得るのだ。作者の意図は重要ではないし、そもそも識別できない。明白な、あるいは常識的な解釈などない。なぜならすべてが無限の意味合いを持つからだ。つまり、真実というものなど存在しないのだ。(ミチコ・カクタニ『真実の終わり』、位置:623)

  もちろん文学にすべてを帰すべきではないのだが、カクタニが(驚くことにカクタニにとって本書が初の著書であるらしい)分析するこの政治あるいは文化状況は、驚くほどに文学も先行しているように感じられる。

 私たちは、事物と言葉との間に避けがたい裂け目があることをずっと以前から認識しており、一方でその一致を夢見、他方でその不一致を受け入れていたはずだった。それはリアリズムそのものなのだ、と問われれば、頷くより他はないかもしれない。その時々の社会情勢や政治状況、あるいは文学運動の中で、数多の試みや企てがあった。

 例えば横光利一は「純粋小説論」というエッセイの中で、四人称という突飛な概念を用いて、彼自身が把握している状況と事物とを合致させることを志した。

 彼は日本の純文学が「作者が、おのれひとり物事を考えていると思って生活している小説」であり、「多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているという世間の事実には、盲目同然」のものであると述べ、この従来の「日記文学の延長の日本的記述リアリズム」では、「人々が、めいめい勝手に物事を考えていること」の前には役立たなくなる、と述べる。「登場人物各人の尽くの思う内部を、一人の作者が尽く一人で掴むことなど不可能事」なので、「何事か作者の企画に馳せ参ずる人物の廻転面の集合が、作者の内部と相関関係を保って進行しなければなら」ず、「自意識という不安な精神」「『自分を見る自分』という新しい存在物としての人称」を表現するためには、従来の「古いリアリズム」ではなく「自身の操作に適合した四人称の発明工夫」によらなければならない、と述べる。

 もちろん相対化して言えば、この横光の四人称もまた、数多ある真実の一側面を描こうとする営為に過ぎず、ここで志された真実は書かれた瞬間に死んでしまう、ということなのかもしれない。

 ただし、ルカーチの述べたように小説の客観性を成立させているのは、意味の完全性とでも呼べるものではなく、不完全な意味の、しかし現実の一担保であろうとする営為であったはずである。相対主義の蔓延によって、その現実を担う意味の存立自体が危ぶまれるとき、現実そのものは虚無に捧げられることになる。

 人々はめいめい勝手に物事を考えているのだから、この真実は無駄になってしまうのかもしれない。だが、一つだけ希望があるとすれば、カフカの「合唱のなかにはじめて、ある種の真実が横たわっているのかもしれない」(『夢・アフォリズム・詩』、平凡社ライブラリー、P.242)という言葉なのかもしれない。

真実の終わり (集英社文芸単行本)

真実の終わり (集英社文芸単行本)