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『ライオン・キング』(2019年)

ライオン・キング (オリジナル・サウンドトラック デラックス版)

ライオン・キング (オリジナル・サウンドトラック デラックス版)

  • アーティスト: ヴァリアス・アーティスト
  • 出版社/メーカー: Walt Disney Records
  • 発売日: 2019/08/07
  • メディア: MP3 ダウンロード
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 ジョン・ファヴローの『ライオン・キング』を観る。

 動物たちの暮らすプライド・ランドでは、ライオンの王としてムファサが君臨し、サークル・オブ・ライフ(命の環)を重視した統治を行っている。王妃サラビとの間に生まれたシンバの誕生を祝うためのセレモニーを行った日に、王の弟であるスカーは欠席する。彼は王になるためのチャレンジにて、ムファサに敗れ、鬱屈とした日々を送っていた。ムファサとシンバは父子の関係、そして王たる者としての勤めを教わるなど、順風満帆な日々を送っていたが、シンバと、仲の良いナラと一緒にハイエナたちの住まう土地を訪れたことをきっかけに不穏な空気がプライド・ランドで流れ始める。スカーはこの機会を最大限に活かすために、ハイエナを統べるシェンジと共謀し、ムファサを罠にかけようとする。スカーに唆されて、シンバはライオンの咆哮を鍛えるとの名目で谷底に連れられてくる。そこへハイエナたちに追い立てられたムーの大群が押し寄せ、シンバは窮地に陥る。ムファサをスカーに連れられて状況を理解すると、すぐさま息子を助けるために谷底に下っていく。スカーは目撃者を減らすために、鳥のザズーに助けを呼ぶように依頼する。ムファサの健闘のお陰で無事にシンバを助けることができたが、崖を登っている最中、あと一歩のところでムファサの前にスカーが立ちはだかる。スカーはムファサの足に爪を立て、ムファサは谷底へと落ちてしまう。谷底へ落ちるところだけを見たシンバは、父の下に駆けつけるがすでに息はなく、スカーが現れて、「お前が殺した」と子を詰る。罪悪感に苛まれたシンバは、スカーに言われるままにプライド・ランドを後にする。そんなシンバにすかさずハイエナを差し向け、スカーは新たなる王国の誕生のために万全を期そうとする。だが、シンバはなんとか難を逃れるが、やはりプライド・ランドに戻ることはできないのであった。プライド・ランドでは王が交代し、ハイエナとの共存が図られることになるが、彼らは調和を無視して食べ散らかすので、次第にプライド・ランドは荒廃していく。一方、シンバは途中で力尽きるが、ハゲワシに襲われるすんでのところでイボイノシシのプンバァとミーアキャットのティモンに救われる。彼らとともにジャングルに居を移したシンバは、肉食であることが忌避される関係の中で、虫食を覚え、環境に適応していく。かくして月日は流れ、プンバァとティモンのモットーである「ハクナ・マタタ」(くよくよするなとか、過去にこだわるなとかいった意味)を口ずさみながら、シンバは王の息子たる自分を忘れようとしたのだった。他方、ハイエナの無尽蔵の食欲に荒らされたプライド・ランドを目の当たりにしたナラは、助けを求めるために寝屋をこっそり抜け出す。偶然に足を運んだジャングルの中でイボイノシシを見つけたナラは、獲物を仕留めるために追いかけるが、あと一歩のところでオスのライオンに邪魔される。争っているうちに、相手があのシンバであることに気づいたナラは、驚き、そして同時にプライド・ランドの惨状を訴える。しかし、「ハクナ・マタタ」なシンバはそれを忘れようするが、久しぶりに会ったナラに惹かれてもいた。さて、シンバ生誕のセレモニーを行いもしたマンドリルのラフィキは、ひょんなことからシンバが死んでおらず、どこかで生きていることを知る。彼はシンバの居場所を探し当て、「ハクナ・マタタ」の精神にどっぷり浸かっているシンバに、何者かを思い出させようと、空に浮かぶ星々、水面に映る自分の姿(そしてムファサそっくりに育っている現状)を見せる。ムファサは「思い出せ」と語りかけ、シンバはとうとう自分の責務を思い出す。仲間たちとプライド・ランドに戻ったシンバはスカーを追い詰めるが、スカーに過去の罪を責められ、崖に落とされそうになってしまう。そこでスカーが過去の真実を喋ってしまうと、反転、シンバはスカーを追い詰め始める。落雷によって炎に包まれる中、ハイエナとの死闘を繰り広げ、王として帰還した我が子を助けるためにサラビたちも協力する中、シンバはスカーを追い詰めていく。スカーはハイエナに唆されたのだと命乞いをし、命だけは奪わないでくれと懇願する。シンバは、かつてのスカー同様にこの地を去れと言い渡すが、一瞬の隙を奪って火の粉をシンバにかけ、スカーはシンバを殺そうとする。抗うシンバ。もみ合っていくうちに、スカーは崖から落ちてしまう。そして、そこにはかつて仲間だったハイエナたちがいる。スカーはまたしても命乞いをするが、彼らはもう耳を課さない。崖の下で悲鳴が響き渡るのであった。時は流れ、プライド・ランドに緑が戻った日、かつて見た光景と同じように、数多の動物たちが集い始める。崖の上には王たるライオンと、その伴侶がいる。そして、新たなる子が掲げられる。こうして、命の環は次の世代、そしてまた次の世代へと受け継がれていくのであった。

 私の中では1994年のアニメ版『ライオン・キング』というものはかなり記憶に残っているもので、それは潜在的にも、かなりの影響力を持っていたように思われる。例によって昨今の「アニメ→実写リメイク」のディズニーの流れの中で、先般公開されて大傑作だと思った『アラジン』にしたって同じことで、この時期のアニメを集中的にリメイクすれば、私のような世代の人間にとって見ればドンピシャであろうと思われるし、実際劇場に足を運んでもいる。

 その流れで行けば本作も大傑作、となるべきなのかもしれないのだが、私は本作をあまり買っていない。これは思い出補正も入っているのかもしれない。

 まず実写に近いCGを多用することによって、元あったファンタジーめいたものが失われて、かなり生身のものになってしまった、ということ。これは単にアニメから実写へ、ということに伴うキャラクターの魅力低下、ということではない。アニメーションとして描かれることで画面から忘却させていた「暴力性」のようなものが、超リアルなCGによって、ふたたび、まざまざと思い出されたのだ、ということであろうと思う。そしてこの写実的な描写にすればするほど、この『ライオン・キング』のシェイクスピア的な政治劇は、単に人間をライオンに置き換えただけ、という風に感じられてくる。個人的にはここが最も気にかかるところだった。

 例えば『アラジン』では、(アニメから実写への過程の中で)「女性」というテーマを賛否はあるものの導入している。このことによって、アニメでは隠すことができていた(隠そうとしていた)現実のグロテスクさを、別の方向を用いることで解消しようと試みている。この試み自体は、劇中のテンポを崩した点は否定できないものの、一定の評価はできるだろう。しかし、『ライオン・キング』の場合、例えばムファサとシンバが見回りに行くところで、鳥のザズーに対してちょっかいを出すところなどは、これはもうほとんど差別的ではなかろうか、と思った。「王」と「家臣」がおり、そしてその関係性は種族が異なる以上、不可逆であるとき、アニメでは隠されていた(隠そうとしていた)身分のグロテスクさがここにはある。そしてこの「王」は、「家臣」を本当の意味で食べることができるという、真の優越性がある。それは劇中、大人になったシンバがジャングルの仲間に「肉食であること」を理由に内心恐れられているのとパラレルな問題で、これについてはいささかの解決もないし、彼らがライオンである以上、解決することができない。アニメーション的な描写の中では、「王」として、収奪する者として君臨することのグロテスクさが覆い隠されていたが、超リアルなCGとして観ていけば観ていくほど、こちらは違和感しか覚えなくなってくる――なんて茶番なんだろう、と。

 命の環、についてもよく触れられていたが、この『ライオン・キング』は結果的には兄弟劇のようなものでしかなく、ライオン(君主制、貴族たち)にとっては重大事であるかもしれないのだが、それこそジャングル(民主制というか、無政府状態?)にとっては関係のない話でもある。結果的に子の誕生によって集められた動物たちは、今回の騒動にただ収奪され、殺される側としてしか関係がなかったではないか、とも思うのだ。嫌な言い方かもしれないが、プライド・ランドの一大事、ということであるにもかかわらず、結果的に今回の騒動については(プンバァやティモンといったジャングルの動物を除いて)旧体制派のクーデターでしかない。政権内部で起こった騒動で、大部分の動物にとっては、その実、無関係だったのではないか、と思われる(一見したところ、移動の自由くらいはありそうだし)。