Outside

Something is better than nothing.

数字は嘘をつかない式の読解

mathematics.

 とても嫌いというわけではないのだが、私は数学についてはあまり得意ではない――というのは大学は文学部であったし、逆算すると高校二年生くらいから文系の授業を受けることになっていたので、数学についてはややおざなりな傾向があったように思う。とはいえ、数学の授業自体は好きだったし、微分積分が何の役に立つのかはさておき、高校数学のレベルにおける微分積分の問題を解くことについては純粋に学習上の楽しさを感じてもいた。

 大学に入ると、どんどん知能は劣化していく一方であり、それはさらに就職を経ることで腐っていってしまった気もするのだが、とはいえ、大学時代はある分野においては研ぎ澄まされていくような気がしていた。

 で、就職をすると忘れていたはずの数学というよりは「数字」についての意識を問われることが多くなった日々で、これはビジネス数学だ、と思って私はビジネス数学検定を取得したこともあったのだが、いや、しかし数学と数字は違う。

 気づいたのは単純なことだった。

 目の前にプリントされた数字というものは、あくまで数字でしかなく、それは数百億の金額が印刷されていたようが、漢字で記載されていようが、数学といったものとは異なる種類のものだった。

 だから何かあったのかということでもないのだが、それから私はある意味で小説の筋書きを書くような気分で「数字」を作っていった。ここで言う数字とは、資料上に踊るそれ、である。そうしてみると、表計算ソフトを使用して算出される各種の数字というのは、入力さえ正しければ出力される結果は必ず正しいという当然の摂理であって、その結果として現前するものは読み取るべき文学作品だ、ということを思うようになる。

 私は真面目に小説に向き合うときは、適宜引用しながら、根拠を示して評論を書いたりレポートを書いたり、論文を書いたりするのが好きで、つまり、それは「数字」だろうが何だろうが同じことなのである。

 書いていないことは論じられない。

 数字がない以上は読み取ることはできない。

 定性的と定量的といった言葉があるのだが、この場合は後者に属するのかもしれないのだが、しかしこの二分法は適さないだろう。文学作品の読解にあたって、「書いていないこと」の中身についてはやや範囲が変わる場合があるのだが、しかし原則としてこれを死守しないことには書きようがない。

 それと同時に、仕事の上でも分析を行う際に、「数字」にないことを出力しようがないのである――私の仕事の範囲においては。結果として出力された「数字」以外の定性的な評価を元に算出ということはあるのだが、その場合はもろに文学作品の読解に近しいものになる。

 私のボスは「数字は嘘をつかない」と言った。それは真理であるがゆえに、当然のことなのである。そして数字が苦手だと思っていた今までの価値観は、あくまで文系、理系の二分法に認識を狂わされていた、という気もする。