考えながら書いていったことを個人的なメモとして、以下に記す。また、以下に記すことは個人的な整理の範疇にあるため、学術的な定義等に関連するものではないことをあらかじめ記しておく。
流言蜚語やデマゴギーとポスト・トゥルースがどう違うのか、というのは私には正確なところは分からないのだが、ひとまず私が整理しておく場合には、ポスト・トゥルースは経済に結びついているというところが直感的にあり、そのもっとも結びつきの強いものは広告だということである。
流言蜚語は清水幾太郎の『流言蜚語』(ちくま学芸文庫)を読む限りでは、
流言蜚語は無根拠であると言われるが、さきに見た通り、一定の条件なり原因なりがなければ生ずるものではない。それはそう毎日のように起こるものでもなく、民衆が各々その堵に安んじているような時代に発生するものでもない。それは言うまでもなく社会が危機に直面し、その秩序が既に幾分か動揺している時に生ずるものである。流言蜚語は往々考えられているほどに気まぐれな移り気なものではないのである。通信、交通、報道の機関が固有な且つノーマルな活動を停止するということが流言蜚語の温床であった。(清水前掲書、38頁、下線は引用者)
具体的には関東大震災における社会主義者、朝鮮人、中国人らの虐殺に絡んでの言だということを注釈しておくべきだろうが、そういった社会の危機に際して、公的な機関の発する情報源が著しく信頼性を落としているときに、人々の不安という間隙を縫って訪れるものである。
流言蜚語は「全体を取上げて考えると、そう簡単に無根拠とは言うことが出来ない」(44頁)ような類のものであり、人々にある種のリアリティを抱かせる必要性がある。清水が例に挙げていたのが、ある政治家が病死したときに、正式な発表が為されたとしても、その時々の政治状況(例えば汚職の疑惑が向けられていた)によって、人々がその政治家を自殺(暗殺)したものだと思うような、そういった案配のものである。政治状況を俯瞰した場合、「そう簡単に無根拠とは言うことが出来ない」というのは、そういうリアリティを伴っているからだろう。
解説にも書かれていたが、2011年の東日本大震災にも当てはめることができるだろう。清水は肯定的に流言蜚語を捉えていたが、これはモノローグ(一元)的に情報を伝える政府機関(と大手メディア)に対して、ポリフォニックな情報伝達として見なしていたからだろう。だから被災状況やその対策を伝える政府発表に対しての信頼性が著しく揺らいだとき、TwitterなどのSNSで「流言蜚語」が飛び交うことで(功罪はあるにしても流言蜚語は)有効だった、といった方向性で考えられている。
デマゴギーはどうなのだろうか、というところで私は解を持たないのだが、個人的な整理としてはある状況下で、一方が他方を害し、利するための事実に基づかない情報だと考えたい。そこでは流言蜚語にあったようなポリフォニックな性質は失われ、一元的な情報が飛び交うことになる。明確な意志を持った情報だと言ってもよい。
政争を行っているときに、相手を失脚させるために故意に嘘の情報を流すといったもので、結果的に失脚させたことで一方の利益になるということである。おおむね二者間の関係性の中で、デマゴギーは発生するとしてもよいのではないか。
ポスト・トゥルースは、流言蜚語のポリフォニックな性質が過剰に行き着いた先にある、タコツボ化なのではないか。
流言蜚語で想定されていたのは、政府(メディア)→情報(情報A)→人々という情報伝達の図式があったときに、いちばん先頭に来る「政府(メディア)」の信頼性が揺らぎ、そのために政府(メディア)が保証していた公式な情報(情報A)の信頼性も揺らいでしまう。そのため(本来信頼性が低いと退けられていた)「情報B」や「情報C」……といった、裏づけのない情報が、その時々のリアリティに適合して人口に膾炙するといった現象だと考えられる。
だが、ポスト・トゥルースはすでに政府(メディア)の信頼性が揺らいでいる。アメリカでオバマが大統領だった時期に町山智浩がよく書いていたのがバーサーズのことで、FOXテレビなどの対立メディアがデマゴギーとして偽情報を延々と流し続け、共和党支持者は公式な情報(オバマは大統領たる資格を持っている)を信じず、バーサーズ的な事実(要するにオルタナティブ・ファクト)を信じるようになっていた。
その素地がある上で、「マケドニアの若者たち」による(グローバル)資本主義的なクリエイティビティによって、SNSのエンゲージメントを稼ぐことによって生じる広告収入のためにフェイクニュースを立ち上げていった。そこには先の例で言えばデマゴギー的なものもあるのだろうが(ブライトバートニュースのように結果的に政治的なポストについてしまった者もいるから)、すでにあるリアリティの素地ができあがっている者に向けて、情報が伝達されている印象がある。
いわゆる右派の方がフェイクニュースを信じてしまうといったデータもあったと思うのだが、だとすればそこでは「政府(メディア)→情報→人々」といったマスメディアとかマスコミュニケーションと言われた情報伝達が前提とされているわけではなく、「メディア」→「情報(A層向けに最適化)」→「A層の人々」といったマーケティングの発想を元にした、あらかじめ伝達先が決まった情報伝達が行われていることになる。それがタコツボ、あるいはフィルターバブルだということになる。その時々の(政治)状況に則ったリアリティはすでに存在しておらず、元々のA層の人々が持っている世界観に基づいた「商品(としての情報)」が、彼らに向けて発信されているだけになる。
だから、「公式な情報」というものがもはや存在しておらず、事実というものは簡単にオルタナティブなものも存在しているという風に言われてしまうことになる。それはすでにリアリティを欠いた情報だからだ。そして商品として最適化された情報はポスト・トゥルースにおいて広告にもっとも結びつきが強いものだと思うのだ。
言葉足らずの部分もあるのだが、感覚的な部分をそれなりに言語化できたと思うので、以上で拙文を終える。