読むことの適合
致命的と思うような事柄について、それを糊塗するための嘘やその場凌ぎの誤魔化しを繰り返した挙句に、時間という波にすべてを浚われてしまって、気づけば泳ぐ術すら知らないのに沖合の陸から遠く遠く離れた地点で、途方に暮れて漂っている。それが今年を総括する上で、ひとまず私が述べることができる一つの解釈であろう、というのは、いささか暗い始まりになるだろうか。けれどもよくよく考えるまでもなく、今年の私は「fit」という、フィットネスと適合を意味する言葉をテーマに動いてきたつもりではあったのだが、それは端的に言えば怠惰を肯定する詐術であった。
しかしながら、途中からの私は少し方向性を転換することに成功したように思う。一つには、本来的に想定していたフィットネスの分野において、Nintendo Switchの『フィットボクシング』の存在によって、体を動かすことの喜びに久しぶりに出会えたからだった。
この存在は僥倖としか呼びようのないもので、個人的には唯一テーマ通りに動くことができたものであったかもしれない。コントローラーのHD振動が返す擬似的なフィードバックに対して、ゲーミフィケーションの結果としての快がもたらされ、モチベーションに繋がっていく。まさに理想的としか呼びようのない反応があった。今年を振り返るにあたって、このゲーム自体は予想外の収穫であったように思われる。
おおむね創作は停滞し、書くことからは遠ざかり、映画すらほとんど観なくなったのだけれども、唯一続いたのは「読むこと」だった。これが私の今年であった。適合を前提に行動したとき、あらゆる怠惰はそれを理由に許されうる。何か構築的なことを考えようとすればするほどに、どこかしらの妥協が私を導いたが、しかしそれでも唯一、その安易な岸から私を遠ざけたのは読むことだった。
具体的なものに繋がったのか、と言うとそれは微妙な問題を孕んでいるが、仕事においても、趣味の分野においても、「読むこと」がこれほど役に立ったと実感できたことはなかった。役に立った、というのは違うかもしれない。平面的な事象に対する立体的な切り口を見せてくれた、と言うべきなのかもしれない。そして、それは潜在的に書くこと、書かれることになりうる、という確信が私にはあった。
読むことを通じて出会うことができた本について、最後に簡単に触れたい。
ブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、2019年)は、まず間違いなく今年のベストになる本だろう。私は彼女の書いたものが大好きではあるのだが、常に一つ、二つ、いやさらに上のレベルのものをこちらに投げかけてくる。自身の息子との対話を通じて、単なる一方的な視点ではない多層的な観点から、イギリスや子供、あるいは差別、あるいは社会、もしくは私たちが得てしてぞんざいに扱いがちな「未来」について、鮮やかに描き出されている。これほどの筆力と、これほどの視座を持つことができるというのは、とんでもないことなのではないか。
ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(集英社、2019年)については、やはり触れなくてはならないだろう。ポスト・トゥルースという言葉が一段落した現在ではあるが、それでもこの現象自体は未だに地続きで私たちの社会や言説、そして政治の中に紛れ込んでいる。そのとき、特徴的にこの事象が現れたアメリカの中で、いったいどのような社会的な経過、そしてどのような思想的な経緯があって生まれたのか、ということが描かれている。ポストモダニズムというのが、ここでの一つの道筋ではあるのだが、無論のこと、ミチコ・カクタニの述べたことがすべて真実であるわけではない。しかし、この経歴は長いが、本書が初の単著であるという彼女の本が、この「真実」を巡るテーマを扱ったというのは、長年、文芸評論家として活躍し、当然にリアリズムについて触れてきたからなのではないか、と推察する。
小野不由美の十二国記シリーズの、『白銀の墟 玄の月』(新潮文庫)は、やはり触れずにはいられなかった。私はファンが待ち望んだ時間とまったく同一の時間を歩んだわけではないのだが、それでも十年はこの本を待っていた。本当に素晴らしかった。そして、この本を出してくれた著者に本当に感謝したい。
ジェリー・Z・ミュラーの『測りすぎ』(みすず書房、2019年)を最後に取り上げたい。私自身も仕事の上で、計数的な仕事をしているのだが、その中で単純なパフォーマンス評価をするにあたっても、数字を分解していく、そしてその結果として誰かが評価されるということについての正当性を、どうしても納得できずにいた。どうしてこの数字が、誰彼のパフォーマンスを測るのに正当なのか。私はここで勘違いしたのだが、さらに数字を細かく分解していけば、きっと分かるはずだ、という風に考えていた。本書の中で引用されている、ある文言が痛いところを突いてくる。曰く、エクセル・リアリズム。例えばボルヘスは、図書館の分類を、ベーシックな批評であるといった言い方をしているのだが、これを敷衍すると、本書でも述べられているように、測定すること自体に判断が当然に入ってくる。測定というのは、測定結果が批評なのではなく、測定すること自体が批評なのだ、ということだ。この辺りについては、いずれ私の中で整理していきたいが、かなり本質的なことを述べていたように思う。ブレイディみかこの本を除けば、本書は今年のベストでもいい。
以上になるが、来年は「読むこと」をテーマに動いていきたい。本質的に創造的なのは書くことではなく読むことである、と述べた作家は多いかもしれないのだが、しかしそれを痛感する一年であった。