Outside

Something is better than nothing.

数々の毀損と後退

 

 2020年という年がもともと喜ばしいものとしてあったのかどうかということを考えるとそうでもないような気がしないでもない年の瀬に、今年の振り返りを行おうということはどこか暗く、そして冷たい予感を覚えるのだが、しかしそれは致し方ない類のものであるような気もする。

 さて、今年は「読むこと」を一つのテーマとして動いてきて、これは本を読むだとかそういうことも含めて、あるいは私の仕事において(確実な一つの要素である)書類を読んでいくようなそういうことも含めて、かなり広い意味で「読むこと」をテーマにしていたのだが、結果的に言えばこれは成功したと言っていいだろうと思う。

 従来よりこの「読むこと」について、私は重きを置いてきたし、そうであるがゆえにその態度が間違っていないかどうか不安でもあったが、年の瀬になって思うのは読むこと、そしてそこと向き合うことで確信を得られる明晰さのようなものについて、このとんでもない一年を考えた上でも、正しかったのだ、と結論づけたい。

 言うまでもなく新型コロナウイルスにより多くの人々が亡くなり、また感染したが故の身体的、社会的な悪影響を被り、また感染していない(あるいは無症状)人々であっても諸般の制限と経済的な苦しさがあったのだろうと思う。

 とはいえ、実体経済と金融市場の乖離が凄まじく、この年末に日経平均バブル崩壊後の最高値を更新することとなったし、ダウ平均株価も最高値を更新することになった。ピケティが『21世紀の資本』の中で資本収益率は常に経済成長率を上回るということを実証していたと思うが、まさにそういうことを感じさせるものだった。端的に言えば資産から得られる収入は労働から得られる収入よりも多くなるという、雑な理解を前提に、おそらくこの実体経済と金融市場の乖離と、そこに関する違和感は多くの人が抱いたことだろう。

 これは端的に不公正なものだ、と感じるが、そこに至るための補助線として、私は昨年同様にブレイディみかこの「エンパシー」という考え方を挙げたい。私はこの乖離はエンパシーの不在を思わせる。

「ええっ。いきなり『エンパシーとは何か』とか言われても俺はわからねえぞ。それ、めっちゃディープっていうか、難しくね? で、お前、何て答えを書いたんだ?」
「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathy は「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。(ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー、P.73)

 数々の毀損を行った/行われた果てに、他者への想像力がなくなってしまったこと、そして他者を「読むこと」がなくなったこの後退局面において、エンパシーこそが一つの「地べた」になるのではないか、ということが私の今年の総括である。