Outside

Something is better than nothing.

頭頂部の景色

Exhausted

 特に意識したことはなかったのだが、人の頭頂部を見るときに、ふと彼か彼女かを前面から見るときと異なった印象を持つ、ということに気づいた。すべてが当てはまるわけではないし、好きこのんで他人の頭頂部を見るということはないのだけれども、ときおり電車の中、あるいは会社のデスク(私が相手の背後に立ち、相手が座ったまま話すとき)で、他人の頭頂部を見るとき、「ああ、この人はこういう人なんだ」という実感を持つ。

 これは確信ではない、脆弱な形での実感ではある。正面から人を見るときの印象は顔によって決まるといっても過言ではない。それは顔かたちが良い悪いという話ではなく、人にとり顔というものの持つ位置がそれだけ大きいのだ、ということなのだが、だからこそ、その相貌に現れない疲労や経験、あるいは「時間」そのものが、頭頂部にはある。

 若々しい顔を持つ上司でも、ふと頭頂部を見る機会に恵まれると、いくぶんか白いものが混じりつつあるわけで、どれだけ美しい女性でも、髪の毛の仔細を頭頂部から眺めれば、そこには何か整然としない混沌がある。

 うろ覚えの記憶なので間違っているのかもしれないのだが、古代中国においては頭頂部を晒すことは恥とされていて、頭巾で隠していたとか何とかという記憶があって、つまるところ、その恥の感性は、頭頂部が当人の印象を、彼我が持つ実感を超えてしまうというところにあったのではないか、と思ったり思わなかったりする。特に禿頭の場合、その実感の強化はさらなるものだろう。恐ろしいまでの乖離がそこにはあるのかもしれない。

 毛髪の有無にはよらないが、頭頂部から見た景色というものは自身の、あるいは他者の持つ印象を、まったく塗り替えてしまう経験になりうる。その意味において、私はなんだかばつの悪いものを見てしまった、という感を日々抱くようになったのだった。