Outside

Something is better than nothing.

コンディションの恒常性

Crystal

 たぶん誰にでも訪れるであろう代物ではあるのだろうが、三十歳になってから周囲との関係性や、二十代ならば抱きうるものだった熱情がすっかり失われてしまって、体の奥底にある熾火のような、熱はあるものの、けれどもどこか距離があるような、そういう状態に、ふとした瞬間に寂しさや、もの悲しさを感じる。

 同時に体の疲労感というものが変わった。以前はとんでもなく元気で、かつ、とんでもなく疲れる、といった浮き沈みの激しさのようなものがあったのだけれども、この一年間、かなり冷静に自分の体調というものを見ていく中で、そういう浮き沈みの激しさが自分の中から少しずつ失われているような気がしてならない。

 それはコンディションの恒常性が高まったのだろう、と一義的には思う。同時に感情の浮き沈みの少なさは、小説的な気運の減退ということにもなろうかと思う。私自身はずっと何かを書き続けていたような気もするのだけれども、その状態に身体が置いてけぼりになってしまう。

 コンディションがどんどん一定になっていけばいくほどに、身体性というものは透明になっていく。私の身体が、私の身体としてそこにあること、そのことが私の認識にとり、「当たり前」のものになっていくこと。

(この書き方は誤解を生むような言い方かもしれないのだが)女性の場合、この身体におけるコンディションの恒常性は極めて難易度の高いものかもしれない。私には妻がいるが、妻の身体にとり、恒常性を感じる瞬間というのは稀だ。

 以前は浮き沈みの振れ幅が私の方が大きかったし、よく病気に罹っていたが、今ではそれも逆転している。仕事も、疲れ果てて何もする気が出ないくらいだったのだが、今ではかなり余裕が生まれている。

 まだ体力と、失われていくあれこれが拮抗しているからそう思えるのだろうが、なんというか不思議な感興を覚える。身体性に焦点を当てたが、社会性もまた変化している。自分の身体が、社会の中に置かれたとき、かつてと今ではかなりあり方が変わっているものだ、といったような。