Outside

Something is better than nothing.

『運び屋』(2018年)

 クリント・イーストウッドの『運び屋』を観る。

 クリント・イーストウッド演じる九十歳のアール・ストーンはデイリリー農家として各地の品評会に出品しては注目を集めていたが、やがてインターネット通販により従来の商売スキームでは売り上げが芳しくなくなり、やがては銀行に農家を差し押さえられてしまう。それまでデイリリーの栽培に心血を注いできて、ダイアン・ウィースト演じる妻メアリーとは別れ、また実の娘であるアリソン・イーストウッド演じるアイリスは、彼女の結婚式に出席しなかったことから十二年あまりも口を利かなくなっていた。唯一、孫娘であるタイッサ・ファミーガ演じるジニーは彼に親しみを感じているが、差し押さえ後、彼女の婚約パーティーを訪れたときに他の家族から疎まれていることをまざまざと見せつけられてしまう。しかし、そこで彼女の友人が彼の仕事に対する熱心さと、免許を取得後、一度も違反していない優良ドライバーであることを買って、ある仕事を提案する。指定された場所に向かったアールは、怪しげな男たちによって車に荷物を積み込まれる。この荷をここからある場所にまで運べば、金を得られるという。アールは実に淡々と仕事を運び、初めての仕事を完遂する。そしてその金で孫娘の結婚式の資金援助し、少しだけ家族との絆を修復することができる。二度、三度と彼は運び屋としての仕事を行うようになり、そのたびに差し押さえられた農園や、退役軍人会への寄付を行う。彼の仕事ぶりは従来ならば考えられないほど破天荒で、ときおりは路上で困るドライバーに手助けし、また寄り道をして食べ物を買う。しかし麻薬カルテルのボス、アンディ・ガルシア演じるレイトンにとっては、最終的に積荷がある地点からまた別の地点までたどり着けばいいと、そう思っていた。ブラッドリー・クーパー演じるDEA捜査官コリン・ベイツは、ローレンス・フィッシュバーン演じる上司から期待され、麻薬組織の壊滅を目指して動くが、タタ(爺)と呼ばれる運び屋の存在を掴みかけていた。ある日、アールに監視がつくようになり、それと同時に彼の荷物は重くなる。彼はメキシコのボスの元に招待され、歓待さえ受ける。そのまま順風満帆かと思ったが、ある日、組織の中でクーデターが起き、ボスが殺され、これまで緩やかな締めつけが厳しくなり、アールへの締めつけも以前よりも厳しくなる。アールはこれまでのように寄り道ができなくなり、誰かを気ままに助けることもできなくなる。そんなある日、彼の元妻であるメアリーが危篤に陥る。ジニーから連絡が入り、すぐに来てくれと言われるものの、彼は自分の仕事があり、そしてまた締めつけがきつくなっていることを理由に断る。ジニーに罵られ、またメアリーの死に目に会えないと誰もが思ったが、アールはメアリーの元に戻ってくる。家族はふたたび絆を取り戻し、メアリーもまた、互いに愛を再確認しながら、亡くなっていく。葬式にも出席したため、行方をくらませていた期間は一週間にも上り、組織に捕まったアールはあわや殺されるところだったが、仕事を完遂させる命令が新しいボスから出て、彼はまた運び屋として積荷を運ぼうとする。だが、タタことアールを探していたコリンは内通者から彼の存在を嗅ぎ分け、とうとうアールは捕まってしまう。裁判で彼は自分の罪状を認め、刑務所に入っていく。あらゆるものは金で買えたが、家族との時間は買えなかった、と思いながら。

 老齢のイーストウッドを見るのは、もうこれで最後なのかもしれないし、それはたぶん『グラン・トリノ』のときに誰もが思ったのかもしれないし、私は未見だが『人生の特等席』こそが本当の本当に最後なのだ、という感想を持っていたのかもしれない。とはいえ、彼は九十歳の年老いた一人の男を演じ、また演じ切った。そしてそこにはただ単に俳優としての肉体があるのではなく、九十年という時間の重みを漂わせる時間の象徴としての演技も添えて。

  私はこの映画を素晴らしいと思うのだが、それは映画のテーマなのだろうと思う。この映画は、劇中、明確に描かれるように時間、それも失った時間とその修復についての映画であり、「九十歳」ではない私たちにとっては、その失われた時間というものは、「今後ありうるかもしれない時間」でもある。

 そしてその時間は、物語の筋としての「運び屋」を描きつつ、実際にはアールという一人の人間の積み重ねた(空白の)時間が描かれてもいる。その中には人生の中でもっとも重要な存在の一つであるパートナーとの間の、損なわれた関係性と、その修復がある。

 私はここで題材(運び屋)を否定したいわけではない。ただ「運び屋」を通して描かれた彼の仕事の時間(ある種の能力の高さやコミュニケーション能力の高さ、社会的な承認欲求の強さ)が、同時に彼の家族の時間(の空白)をも内包していることが、凄いことなのではないか、と思うのだ。だから画面の中に描かれる「運び屋」としての彼の姿は、ほとんど常に複数の意味を持ちながら、それでも画面自体のシンプルな力強さと、ささやかに提供されるBGMとによって、軽やかに、淡々と進んでいく。ただし背景にあるものは、膨大な時間である。