Outside

Something is better than nothing.

重なりあって、続いていく

How do I grasp reality when I don't have an identity?

 いつの間にか生まれてから三十年もの時間が経ってしまい、その三十年の半分は、つまり高校生とかそのくらいの年齢になるわけで、そういう時代の自分の存在について、つらつらとよしなしごとを考えていると、時間のあまりの茫漠さについて、途方もない感じを受けてしまう、というのが人情というものなのかもしれない。

 ある地点から別の地点へ移ったとき、そこに同一性のようなものを担保し続けていると思っているわけで、それが自己同一性というものなのかもしれないし、これを書きながらふと思ったのは「自己同一性」なんて言葉を書き連ねたのはずいぶん久しぶりのことだった、ということである。

 もちろん時間を多く過ごせば過ごすほど、この自己同一性なる単語の怪しさについては考えざるを得ないわけであるし、私というものは身体を通じて皆通り過ぎていき、踏みしだかれた結果なのだと断言されれば、ああ、そういうものか、と考えなくはない。

 いつの間にか――という単語が頻出するくらいに、時間に対する認知の頻度はうっかりしていて、とにかくいつの間にか私は結婚していて、貴重な時間を惰眠で潰したり、どうでもいいことに注力した挙げ句に何ら保存することなく壊したりしている。

 よしなしごと、について考えていたのは、小説を書くためで、私がどうして小説を書いているかと言えば、私は小説を書くことが好きだと私自身が思っているからであり、今現に書きつつある小説の中に、自分の幼い頃の体験をできるだけ装飾をなくしていって書こうかと思っているし、ということで、私は現に小説を書こうとしている。

 私のある地点は高校生とか中学生の頃のことではあるのだが、別の地点であるところの今に至ってもなお、行為としては同一のことをしておりながら、同一性は担保しきれていないのかもしれない。

 私というものは、ある私と異なる私とで重なる範囲が日々、刻一刻と変わっていき、まったく別の何者かになろうかと思いきや、ある程度の続きというものは担われている、と思う。