Outside

Something is better than nothing.

見放された音楽

guitars

 父はよくギターを弾いた。母の顰蹙を買いながら、母と息子は父の奏でるギターと下手くそな歌を聞いていた。しかしながら、こう言っては何だが、楽しそうに歌う父の姿は印象的で、彼のようにギターを弾いて歌を歌えば自分はなんて幸せなんだろうとも思った。

 ところで、私は小学生の時分、ピアノを習っていたのだが、何のためにピアノを習っていたかといえばどうやら私が習いたいと親に言ったからで、けれども子供の情熱などさほど当てにならないから、少しやって思い描いた通りに弾けないからとだんだんと飽きてきたのを覚えている。ピアノをやるのが苦痛で仕方なく、私がもしもう一度人生を初めからやり直すとすればピアノなど二度とやるものか、と思ったのを覚えている。

 それから、というもの私は音楽と切り離された人生を歩んだ。

 私は文学をもっぱらとして文学部にまで行ったのだし、歌うのはそれなりに好きだったが、それはせいぜいカラオケに行ったときくらいで、妻を相手に替え歌を歌って悦に入るくらいであったのだが、自分の人生というものは音楽からは見放されているのだ、という風に考えていた。

 その背景には子供の時分の、苦いというよりは七面倒臭い思い出があったからだろう。特に憎しみも苦しみもあったわけではない、というところにより一層の見放された感を覚える次第である。

 だから、というわけではないのだが、私は映画を観て、音楽からは距離を置いた。もちろん映画音楽というものもあるくらいなのだから映画と音楽というものは距離が近しいのだが、そこにおいてはあくまで画面上の出来事を追いかけるというスタンスで、音楽については一定の距離を取ることとした。もちろんそれは欺瞞であるのだけれど。

 画面の上で起きる「動き」は私を快楽に誘った。そこにあるのは純粋なる動きから沸き起こる快楽で、それをトレースしていくことで私は私なりに映画の快楽について理解できたように今では思っている。ある程度のレベルで私は映画を「分かるもの」として認識しているが、それは小説への理解と類似したプロセスから来るものだ。

「分かる」というこの感覚を、私は「音痴ではない」という音楽的な理解から敷衍して理解している。そしてこれは逆説的なものである、というところからも一種の屈折を感じる。私はこの音楽的な喩えを使いながら音楽については常に「音痴である」という認識を持っていた。

 この「音痴ではない」状態を別の言葉で表せば「センスがある」ということなのかもしれないのだが、映画においてもっとも重要なことは何かと言われたとき、私は一言で言えばという留保をつけると、「画面の中で何が起きているのか把握できること」と考えている。この画面はシーンとシークエンス両方を指しているように思うのだが、難解な映画理論を別としても、あくまで鑑賞者としてはそれが一つの取っかかりであろうと思う。小説においては「テクスチャーの感覚」を挙げるが、これは難しく言っているだけで映画のときと同じようなものだ。

 音楽について、私はそれがなかった。ないものだ、と思っていた。そして、今もってあるとも思っていない。

 しかしながら、最近は音楽を作る機会が増えて、この年齢になって新しい趣味ができたことを喜ばしく思う。一方で、未だに音楽について小説や映画ほどの確信を持てずにいる。それは特に小説が再現可能かつ現場感が分かるのに対して、音楽はその生の感覚がどうしても持てないから、だということができる。

 私は小説や文章、あるいは映像――とは言わないにしても写真――を作っているときに、そこにあるリズムを解することが私なりにできているが、音楽はまだそれがない。今後それが備わるかどうかも分からない。しかしながら、自分なりに感じられる快楽を追求することはできる。技術的なレベルという限界は当然にあるとしても、かつてそれを放擲したときと比べると、信じられないほどに粘り強く事に当たっている。

 思い返せば、こんな振り返りを書く前に私はかつて父が私たちにそうしたように、楽しく音楽を妻に聞かせている。それが態度としての正しさを担保できているかどうかは分からないにしても。そして、残念なことに楽器を奏でる技量はないけれども。


middle / Joe Kuga【作業用BGM】