Outside

Something is better than nothing.

黎明のプリンシプル

Dawn

「プリンシプルのない日本」という言葉を何となく耳にした覚えがあったまま、このプリンシプル(principle)という言葉の、一種耳慣れない具合に意味を曖昧に宙ぶらりんの状態にしておくと、金融庁でプリンシプルベースを謳う顧客本意の業務運営(Fiduciary Duty)が採択され、このプリンシプルという言葉もにわかに流行り出したのかと思いきや、このプリンシプルにはプリンシパル(principal)という別の、しかし日本語のカタカナに書き起こすとどうにも似たような響きを持つ言葉があり、さらに言えばディシプリン(discipline)という言葉ともごっちゃになってしまって、戸惑うことひとしきりであった。

 とはいえ、このプリンシプルという言葉は、私にある引っかかりを残すことになった。それも良い響きを持つ言葉として。

 そうしてこの顧客本意の業務運営という言葉も浸透し、私もようやくプリンシプルという言葉に対し、上述のような差分を意識しなくても済むようになってきたこともあって、白洲次郎の『プリンシプルのない日本』を読むことになった。

日本語でいう「筋を通す」というのは、ややこのプリンシプル基準に似ているらしいが、筋を通したとかいってやんや喝采しているのは馬鹿げているとしか考えられない。あたり前のことをしてそれがさも稀少であるように書きたてられるのは、平常行動にプリンシプルがないとの証明としか受取れない。何でもかんでも一つのことを固執しろというのではない。妥協もいいだろうし、また必要なことも往々ある。しかしプリンシプルのない妥協は妥協でなくて、一時しのぎのごまかしに過ぎないのだと考える。(P.219-220)

 白洲次郎は事細かにプリンシプルに解説することはしないが、小林秀雄の友人であったためなのかは知らないが、一種の啖呵としてのキレの良さはあり、上述の言葉など分かりやすくもある。この白洲の持つプリンシプルは現代にも通じる態度であるように思われるし、私自身、非常に親しみを持つことのできるものである。

 このプリンシプルは原理とか原則とか、そういった意味で訳すべき言葉かもしれないのだが、「軸」のような言葉だと思われる。私の場合だと何だろうか、と考えてもみるが、ここで開陳すべき事柄のようにも思われない。

 白洲のこのプリンシプル自体は、この本に収録されたその他のエッセイからも窺い知ることができ、例えば人命を優先することや、経済活動の優先、民主主義及び国民からの信任への信頼感、憲法の理念に対する信頼を感じることができる。最後に挙げたものは押しつけ憲法論に対する彼なりの痛快な言葉も収められており、この根底を為すのが白洲のプリンシプルと言っても差し支えがないだろう。

 思えば太宰治はその破滅的なエッセイ「如是我聞」の中で(記憶で書いているので間違いがあるかもしれないが)、論敵である志賀直哉を論難するにあたり、彼の神を撃て、といったようなことを書いていた。ここで言う神とは、白洲の言うプリンシプルであろう。しかしこの神がいない相手となれば、議論というものは成り立たない。

 このプリンシプルという言葉については、非常に多義的な言葉であると同時に、それを持つ人の核のようなものはおいそれと見ることは叶わないものであろう。しかし、同時に言えばこのプリンシプルを持つということは「自分で考える」ということでもあるのだが、この「自分で考える」とはどういうことなのか、それを次に考えていきたい。