Outside

Something is better than nothing.

遠い感覚

Beach

 少し前に鎌倉に行って、その海岸線を歩いた。どうしてだかふと海に誘われて、というような感覚があって、どこにも行く予定がない連休に私たちは海岸に立った。秋口で、まだ肌寒さはなかったけれども、海水浴のシーズンではなかったから人は少なく、それに世間としては平日だったのもあって、静かで寂しい景色だった。

 この景色を、私は知っている。そう、直感したのは私が尾道水道を毎日のように通っていた過去があるからだが、かといってその尾道水道には浜辺はなく、私の今はなくなった実家から自転車で二、三十分の(しかも長い長い坂を登って)ところにある浜辺で、別に海水浴場というほどではないのだが、そこは私たちには馴染みのある場所だった。そこに住んでいれば、人生のうちに必ず一度は訪れるような。

 江ノ島駅で降りた私たちは観光客が江ノ島に向かって歩くところからどんどん外れてただただ海を求めて歩いた。ウミガメのように、と言えば小説的な比喩なのかもしれないのだが、正しくは無軌道に、と言うべきだろう。

 車がひっきりなしに往来して、決して静かではないけれども、視覚的な音響が静かで私は落ち着いた。ややもすると感傷に囚われているように見えるかもしれないのだが、そういうわけではなく、感傷というよりは遠い遠いところにある何物かに触れ、そしてそれが非常に懐かしい感触であるような、そんな感触だった。例えばもう死んでしまった飼い犬たちの、撫でつけると生き物の感触を伝えるあの毛のような。

 今では無軌道にも多少の方向性が生じる。スマートフォンGoogleマップを開いて次の駅に向かう算段をつけた私たちは狭い歩道を仲良く歩いて行った。旅情というよりも、田舎道で出会う農作業の老人を思い出すような、そんな足取りである。すべてが遠い感覚を呼び起こすようだった。

 例えば手のひら。風に煽られて私の手のひらは少し浮腫んでいるような、そんな感覚角を伝えていたが、それは長時間、こうやって歩かないと起こり得ないようなもので、その感覚自体は日常的に折に触れて体験していたようにも思うのだが、そのときのように意識的に手を見、感じた瞬間はなかったように思う、ここ最近。

 自宅周辺のどこを見ても懐かしいとは思えない土地の無機質さが、ここでは全く異なる様相を告げていて、私はどこを歩いているのかしばしば忘れた。その忘却の果てに、私たちは目的地に辿り着いたのだけれども。