Outside

Something is better than nothing.

想像された靴の心地

shoes

 一年間という時間を一つの区切りとして捉え、そこに総括を行うという営為を否定する必要はないにしても、なぜ我々はこの時間という区切りなくしては、何かを一つのまとまりとして捉えることが難しいのか、ということについて少し考える必要があるのかもしれない。時間という茫漠な事象を前に、私たちはほとんど為す術がない。しかしながら記述がその時間に何かしらの痕跡を刻むことができるわけであるし、そのささやかさは時間の前にはほとんど無力でしかないが、しかしそれでも前進するにはこれを為すしかない。

 2021年という年は個人的なものと社会的なものとで完全に分かれる、というのが私の中の新鮮なものだった。つまり、個人生活においてはほとんど幸せに包まれていたといって過言ではない。幸福の絶頂にある、ということが生まれて以来、訪れたことがなかった私にとってみれば今年は最高の年だった、と言えよう。生活の面でも仕事の面でも、多くの幸せに恵まれた。この幸せはひとえに家族のお陰だと言えるし、職場のお陰だとも言えるし、過去の自分のお陰だとも言える。そしてこうした自己とは異なるものたちの支えによって、今年は生まれてから自覚できるものとしては最も幸せな時間を過ごすことができた。

 生活面はプライベートな部分なのでさておき、仕事面だと今までの総決算のような仕事ができたことに加え、何よりも組織設計に参画できたことが大きい。今までの仕事はあくまでタスク(与えられた課題)といった面が強いものだったが、ここ数年は組織力の向上を目的として仕事をしていた私からしてみると、本来の意味での仕事に近いものができたように感じられる。これは率直に言えば、本当に恵まれたことだった。上司にも恵まれ、過去からの関係性も活きた。新しい関係もでき、キャリア的な展望も多少は生まれた。

 社会的に言えば、新型コロナウイルスのデルタ株の流行とそして目下、オミクロン株の猛威が懸念されている。今まだ予断を許さない状況であって、そして悲しいことに亡くなる方も多い。それは国内情勢のみならず、世界情勢を見ても明らかである。

 政治状況としては立憲民主党の、先の衆院選の惨敗が惜しいものだった。枝野幸男の評価は一旦置くとしても、「野党第一党は、与党に取って代わることのできる唯一のオルタナティヴな勢力だ。そのオルタナティヴがノー・フューチャーな状態になるということは、左派が未来を失うことではない。政治の影響を受けるすべての人々が未来を失うことだ。」というブレイディみかこの『ヨーロッパ・コーリング・リターンズ: 社会・政治時評クロニクル 2014-2021 (岩波現代文庫 社会 330)』(P.477、太字下線は引用者)での言葉を思い出す。自民党政権では菅政権から岸田政権に移行したが、ここで私自身が驚いたのは、自民党の中に言葉が戻ってきた、という驚きであった。国会答弁や記者会見での言葉が、私たちの理解できる言語で話されている、ということが「新鮮」であり「驚き」であった、というところが自民党内での変化といったところだろう。とはいえ、統計問題や赤木ファイル等の問題が未だ山積している状態であり、乱れた政治状況が今しばらく続くものと思われる。

 マーケット面では個人投資家の投資先が日本株ではなく世界株などの国外を投資先として選んでいる、といったところで、私も投資先を考えると、すでに投資しているものを除いて新規に投資しているのはすべて海外である。日本円の購買力の相対的な地位低下国内需要を無視したものづくり幻想のようなものについては、結果的に国内の人件費に影響すると思われるので、最終的にしわ寄せが来る現役世代としてはかなり気になるところである。

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 基本的には2021年は分断がさらに続いた年だと私は認識しており、一年延期した東京オリンピックパラリンピックにしても演出に始まり、選手の意向、そもそもの開催是非を巡って分断が続いた。ネット上ではフェミニズム表現規制を始めとし、女性に対する暴力を多く見てきた印象がある。問題が複雑化するとともに、言語自体の過激化も相まって、途中から正誤を問わず食傷気味になった覚えがある。マイノリティに関しては、入管の問題が最も酷く、スリランカの女性で名古屋入管に虐待され殺害されたウィシュマさんについては、言葉もない。あまりに酷い状況が野放しになっている。

 そんな中でNetflixが提供する『ドント・ルック・アップ』と『浅草キッド』は清涼剤のような爽やかさを提供してくれた。前者についてはこの「分断」を巡る「状況」を真正面から描き、後者は北野武の持つ日本的な叙情性のようなものを描ききることで現実を忘却させてくれた。

 世界情勢についてはロシアのウクライナ侵攻問題が浮き彫りになっており、さらには中国の香港政策を始め、一種の覇権争いのような状況が戻りつつあるのではないかという素人考えを抱くものだが、来年に控えた北京オリンピックパラリンピックについては外交レベルのボイコット表明が相次ぎ、日本も当然にアメリカに追随することになった。中国の膨張は極めて危険であるが、目先に台湾もあることから非常にセンシティブな問題であろうと思う。習近平政権が続くことになるため、この傾向は今後続くことになるのだが、どうなっていくのだろうか。また、アフガニスタンではタリバン政権が復活し、女性への抑圧政策が少しずつ始まっている。国際的なニュースバリューの低下とともに、少しずつ抑圧を強めている印象がある。

 年末は芝健介の『ヒトラー: 虚像の独裁者 (岩波新書 新赤版 1895)』を読んでいた。この中の一説が興味深かったので、引用したい。

 ハイデンのヒトラー解釈の特徴は、ヒトラーが時代のいかなる人間像を体現しているのかと真剣に問う構えにあった。それは、限りなく複雑な政治的・経済的事態の洞察を断念し、政党間の闘争を意義あるものとみなさず、安定した軌道に人生を築くことを端からあきらめ、合理的な認識のうちに自らの世界像を打ちたてることもなく、地道な生活の闘いを避けて奇跡に頼り、明察を捨てて信仰に回帰し、デモクラシーを放棄して独裁に救済を求め、責任のかわりに支配と従属の道を選びとる人間である。ハイデンによれば、ヒトラーはその業績によって勝利したのではなく、あらゆる弱さや間違いだらけにもかかわらず、この(ドイツ)国民がヒトラーを必要としたがゆえに、国民の憧憬の的という役割を彼が模範的に演じているために、勝利を得たのだとしている。自ら責任をとることもなく、国民に対してもすべての過失を問わず免責する、無責任の時代の象徴としてヒトラーを描き出した。(P.315、一部省略、太字下線は引用者)

 今年はあまり本を読むことができなかったが、代わりにいくつか資格を取り、そのために勉強をよくした。あまり読む機会に恵まれなかった本の中でも、一冊だけ選ぶとしたら北村紗衣の『批評の教室 ──チョウのように読み、ハチのように書く (ちくま新書)』をあげたい。

 この本については、内容はさることながら私は心の底から学生時代に読みたかった、と思える本であった。先のヒトラーに関する引用の中で「明察を捨てて信仰に回帰」という言葉があったかと思うが、この本は「明察」を得るための本である。

 自分の声を見つけるためには、これまで自分が外の世界にさらされることで無意識に培ってきた思い込みや偏見を一度意識的に剥ぎ取って、知らないものや聞いたこともなかったようなものに触れることで世界を広げる必要があります。これまでに身につけた偏見の檻の中でいくら「自由にのびのび」やっていても、檻から出て自分の個性を発揮する方法は学べません。調練を伴わない「自由でのびのび」は個性を伸ばす敵なのです。(P.158、太字下線は引用者)

 この他者との出会いのようなものは不快なものも多く含まれるかもしれないが、しかし怠惰を肯定してしまうと自身の個性は伸びない。地道に対象を見、そして対象に関連する文献などを読みあさっていくことで総体としてあるものを浮かび上がらせる。その営為こそが本来の自由になるのだと私は思う。

 繰り返しになるが、今年の私はとても幸せに満ち溢れていた。しかし、社会においては新型コロナウイルスの猛威は繰り返され、また政治情勢、国際情勢は思わしくなく、未だ分断が続くものと思われる。来年は多少なりとも状況が好転し、幸福な人がひとりでも多く増えることを切に願う。