Outside

Something is better than nothing.

『首』(2023年)

 北野武の『首』を観る。

 北野武演じる羽柴秀吉は、加瀬亮演じる織田信長に仕えている。西島秀俊演じる明智光秀とともに、織田勢を裏切った遠藤憲一演じる荒木村重への対処を検討していた。傍若無人な信長は無能と断ずる家臣団を前に、息子は世継ぎに相応しくないため、毛利勢を始めとした諸般の問題を解決した暁には後継者として指名する旨を宣言する。小林薫演じる徳川家康を含め、家臣団は色めき始める。木村祐一演じる曽呂利新左衛門は忍者の里を抜け忍したが、子飼いとともに岸部一徳演じる千利休に仕え、途中で中村獅童演じる茂助を拾い、秀吉の配下に入ることになる。大森南朋演じる羽柴秀長浅野忠信演じる黒田官兵衛が計略を巡らし、信長を本能寺の変に導いていく中、光秀は村重を巡る恋沙汰によって自分の城に彼を匿うことになる。二枚舌で秀吉は計略を巡らせていき、光秀は本能寺の変を起こすことになる。寛一郎演じる森蘭丸と、副島淳演じる弥助とともに信長は本能寺で炎に囲まれることになるものの、最後には弥助に首を斬られ、そのためなのか、光秀は首級を見つけることができない。やがて光秀包囲網が完成し、光秀は敗残の身になる。落ち武者狩りに遭遇した光秀は、功を焦る茂助を前に自身の首を差し出すが、茂助は落ち武者狩りに殺されることになる。秀吉の前に二つの首が並ぶが、汚れた光秀をそうと認識できなかった秀吉は苛立たしそうに首を蹴るのだった。

 北野武ないしビートたけしで男色と言えば、大島渚の『御法度』(1999年)を思い出すのだが、そこにあったエロティックな雰囲気とは一線を画すことになるのが本作で、かなりドライに描かれている。即物的な感性を持っているので、織田信長は公衆の面前でセクハラなのかパワハラなのかその両方なのか、いや、そうではなく、単純にこれは暴力と愛とが不可分に混ざり合った、おそらく近代的な「愛」の概念以前の色恋——は江戸時代からだとすれば、それ以前のものなのかもしれないのだが、そういったよく分からない、おどろおどろしい感情の奔流があって、それを村重に発揮されることになる。村重は刀の先についた饅頭を食べ、信長は下半身から突き出るように構えたその刀をひねり、村重の唇は赤く染まり血を流すことになるのだが、信長はその口を吸う。

 暴力は、それ自身が何ら制限されるものでもないというように呆気なく首を切り落とし、そこからはみ出る肉食の蟹たちが諸行無常を伝えることになる。一見して光秀は冷静を装っているが、内心は村重の愛着で一杯であり、そのことによって策謀の糸に絡め取られることになる。

 北村紗衣が指摘していたが、この映画はアンチセックスの映画なのだ、というのはまさしくその通りだという印象を受ける。前述の『御法度』には異性愛的なエロティックさ(同性愛的なそれは私にはよく分からないので感じ取れたものだけ挙げている)があったものの、ここにはそれがない。途中で柴田理恵演じるマツが、家康の下を訪れて醜女好きの家康の夜伽をすることになるのだが、そのときくらいがせいぜいで、しかもそれは暗殺を試みているし、これでもないくらいに醜女になっているのであまりエロティックな感じはしない。

 とにかく倫理観というものがなく、茂助は身を立てるために親友すら殺して家族が惨殺されたときも笑って戦国の世を生きようとするのだが、その行動のほとんどが意味を為さない。秀吉たちも当然のように駒としてしか見ていない。ほとんど人が物のように動き、扱われ、人のように情念を持とうとすると死ぬ。

 直近の『アウトレイジ』三部作は最後の作品をまだ観ていないのだが、北野武の最近作はフェードアウトを多用しすぎなところに少し違和感を覚えていて、映像に対する自信がなくなってきているのかと少し思う。『竜三と七人の子分たち』(2015年)は自信に漲っていたような気がしていて、当然『アウトレイジ』(2010年)の冒頭の黒塗りの高級車がたくさん出ているところとかも非常によかったのだが、個人的に映像として面白いところがあんまりなかったのが残念である。これはもしかすると主役と監督を兼任しているという体力的な問題なのか、という気もしている。