子育てにあくせくしていると、世間との乖離を感じることが多くなるわけである。テレビをなんとなく見なくなったというか、偶発的な情報の受領が少なくなったように思う。GeminiやChatGPTを日常的に使っていると、エコーチェンバー化していく気がしており、批判的な視野に晒されることが少なくなってくる。YouTubeはレコメンドの精度を上げ、楽天やAmazonは閲覧した商品を何度も見るように促し、単純接触効果による購入意欲を掻き立てる。欲望が外部化されて、即物的な欲求が募ることになり、SNSによりコミュニケーションは断片化し、また断片化以上の情報量は過剰になる。この過剰さを嫌うあまりに閉じこもることは一つの戦略だという気もする。ただ、結果としてこれは表裏なのだ、という予感もしている。
だからこそ、ここに溺れる、という方法論もあろうかと思う。今ここ、の感覚だけは確かなものだからだ。しかし、なんと呼べばいいのか、とにかく心地よさの連環から抜け出すことが本望なのか、というと動物的には間違っているような気がしてならない。そこで重要になってくるのが移動であろう、という直感。
階層化した文章によって我々は物語を理解する術を失うことになった。階層化によって物語は適切に整理され、ありうべき形として理解されることになる。理解、とは。けれどもMarkdownの理解はあくまで配置上の整然さであって、理解そのものではない。この段落と前の段落、そしてその前の段落と何が繋がり、何が関連しないか、飛躍を良しとした文章の連続を仮にAIに読み込ませてみたところで、整理された情報になるだけである。
しかし、果たしてこれが理解なのだろうか、という感じもしている。分かりやすいし、短時間で物事を把握することはできるかもしれないが、手触りのようなものが失われているような気がしなくもない。本来、この文章のうねりにあったはずの、読みづらい、けれども人間の思考の痕跡のようなものまではここにはない。けれども、これは一体何なのか。
物事を単純化する力が一方であり、物事を複雑化する情勢(政治)があるのだ、というレトリックを取ることもできる。ただ、これは本質を突いていない。同時に、ここには本質など存在しない。記述が創造となる。