Outside

Something is better than nothing.

『アイリッシュマン』(2019年)

 マーティン・スコセッシの『アイリッシュマン』を観る。Netflix映画。

 ロバート・デ・ニーロ演じるフランク・シーランは、第二次大戦後のアメリカでトラックの運転手として働いていたのだが、牛肉運搬の最中にジョー・ペシ演じるラッセル・ブファリーノというマフィアのボスに出会ったことで運命が変わり、トラックの組合の弁護士に不正を助けてもらったことで組合に入り込むようになり、アル・パチーノ演じる全米トラック運転手組合委員長のジミー・ホッファの用心棒となる。ジョン・F・ケネディ大統領時代に、ホッファはロバート・ケネディによってその不正を追及され、結果的には刑務所に入ることになるのだが、マフィアとの関係はどんどん悪化していき、出所後、シーランの記念式典の際に、その差異は決定的なものとして現れてしまう。シーランはラッセルの側につくことになったため、ホッファを殺害し、そのことがきっかけで家族ぐるみで付き合っていた娘とも絶縁状態になってしまう。関係者が全員、別の罪で収監されるも病死し、ひとり残ったシーランは神父に告解するのだった。

 フランク・シーランという人物の一生を描いた作品である。スコセッシ特有の、なぜか途中から物語が始まり、途中で語りの現在に追いついたかと思いきや、一緒になって語っていく、という『カジノ』や『グッド・フェローズ』でお馴染みのものであるのだが、やはりこの時間軸を描くにあたって、このスコセッシの技法は十分すぎるくらいに有効である、というのを痛感した。

 かなり雑駁にまとめてしまうと、このシーランという人の孤独はどこにあるのかと言うと、ほとんど生涯を他人のパシリみたいなものに費やしてきた、という点に尽きるのではないか。途中、彼は妻と別れて再婚するのだが、そのときの別れ方もいかにも愛着がない。車を乗り替えるように別れる。彼の中に「家庭」のようなものは見えないように映る。例えば老年の家族愛とその空白については、『運び屋』の中でイーストウッドが不在の時間を見事に描き出したのだが、他方でこのシーランは出来事の多寡だけで判ずるならば、かなり濃密なものを過ごしているように思うが、そこにシーラン自身がいないようにも思える。そして、娘のペギーが懐いていたホッファとの最期にしても、やはり他人の思惑に乗っかっているだけのように思うし、その結果としての娘との疎遠も本質的には自分の意志の外で起こったものだ。よく考えれば、ラッセルと車を運転している道中の描かれ方も、タバコを吸い続ける女たちと、常にラッセルを気にかけるシーラン、という描き方だった。

 アメリカの近代史と、その裏側にいた暴力を描きつつ、そこには当然にして死の気配が濃厚につきまとっている。血腥さというものについて、なんて言えばいいのだろうか、一つには嫌悪感があるのと同時に、一つにはおそらく居心地の悪さのようなものというのか、それは本来的には自分たちの身につけるもの、手にするもの、得ているものの背後にあるものなのかもしれない。

 私はこの映画を肯定するが、この肯定は苦虫を噛みつぶしたような、そんな類の肯定なのかもしれない。