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ラグビーと台風の逆説

Rugby

 別段という言い方が正しいのか正しくないのか分からないのだが、私はこの年になるまでさほどスポーツというスポーツに(観戦者として)熱狂した経験はなく、例えば私は広島県民ではあったものの、広島というアイデンティティに相応しいカープファンとしては育たなかった。子供の頃や長じてからも何度かカープ戦を観ることはあったのだし、それ以外にもサッカーやバレーなどのスポーツを観戦する機会はあったが、スポーツと個人の趣味というのは、少なくとも私にとってはどうも重なりきれないものであった。

 ロシア戦があった九月二十日、私は職場の同僚と飲み屋にいてラグビーをなんとなく眺めていた。興味があったわけではない。たまたま訪れた居酒屋にディスプレイがあって、あまりに歓声が大きいものだから、トライのたびに画面を観ていたのだ――しかし私は画面に背を向けて酒を飲んでいたのだから、それを観たというにはあまりに乱暴な話だろう。

 状況が変わったのは、家に帰ってからで、すっかりにわかラグビーファンとしてのアイデンティティを見出した妻がそこにはあった。泥酔した私に妻は興奮した口調でラグビーは面白い!と力説した。その日はそのまま眠ってしまったが、状況が変わったのは翌日にあったニュージランドと南アフリカ戦になる。

 妻の勧めるに従って、半ば強引にその戦いをテレビの前で観戦することになった私だったが、以前に『インビクタス』(2009年)――ついでに言えば、日本・ロシア戦の夜に放送もされていた――を観たときに、ハカこそ異様な迫力で興味深さを覚えたが、ラグビーそのものは映画の素材以上の感興を呼び起こすことなく、記憶に蓋がされていた。

 実際に試合が始ると、にわかラグビーファンの解説を聞きながら、彼らの戦いっぷりに「度肝を抜かれた」――というのが正しい表現なのだろうと思う。そこには矜恃と己の肉体とをぶつけて戦う男たちの姿があった。これは本質的な意味で戦いなのだ、と胸を熱くしたのを覚えている。その後、何度も覚えることになったその感興は、やがては涙となって現れた。面白いと同時に、私は深く感動していたのである。

 イングランドアメリカ戦でのフェア精神も感激したし、もちろん日本とアイルランド戦の歴史的な勝利も涙した。そしてラグビーとはどういうものなのか、そのチームのあり方も含めて学ぶにつけ、感動のありさまも深くなっていった。個別具体的な名前をここでは出さないが、日本のチームで戦う彼らの中には、あえて日本というチームを選んだ選手たちもたくさんいた。

リーチマイケル「国歌の意味まで知る」に秘められたラグビー日本代表8強の真価 (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 にわかにラグビーの魅力に取り憑かれた身からすれば(いつの間にか妻の勧めるに従ってJスポーツのラグビーチャンネルを契約すらしている)、その多様性には上述の記事にあるように、

国籍を必須としない背景には、ラグビーの発祥と歴史がある。立命館大学の松島剛史准教授(スポーツ社会学)によると、ラグビーが生まれたイギリスでは、1890年代に植民地からイギリスへ来た人物を代表選手に選んでいいのか議論になり、居住を条件に出場資格が認められるようになったという。

「現在、多様性を生みだしている開かれた規定は、もともとは帝国主義時代に生まれた帝国内向けの閉じられた規定でした」(松島准教授)

(前掲記事より)

 という、パラダイムが変わったことによる逆説がある。この記事を読んだのは、台風19号が通過してからだった。

 少し話を変えるが、この台風は数十年に一度の規模であり、気象庁が異例とも言える数日前の注意喚起を行った。この過程で私は本邦に住まう、日本語を母語としない人々に対する災害情報等の連携等を目的とした「やさしい日本語」という取り組みを知った。例えばまだすべてを読み終わっていない望月優大の『ふたつの日本』の中では、日本に住まう「外国人」の数の試算が出ていて、最も多いカウント方法で400万人超としている(講談社現代新書Kindle版、位置694)。(彼らは日本語を母語としないのと同時に英語に必ずしも堪能ではないため)漢字をひらがなに開き、難しい言い回しを用いない等の配慮をした「やさしい日本語」を用いることで、災害時等の緊急性を要する情報伝達に活用しようと試みる。

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 この取り組みには他方で批判もあるようで、一見するとひらがなのみの文章というのは異様な文面に見えるという視覚的効果も相まってなのか、英語等の諸外国語での情報伝達がなされるべきだ、という意見もあるにはあるようである。

 この台風が過ぎ去った翌日に開かれた日本対スコットランド戦は、歴史的な勝利を収め、また日本ラグビー史上初めてのベスト8への進出を決めた。妻と、結婚以来初めての本気のハイタッチを決めるほどに喜んだ一戦ではあった。そして、この台風の惨禍は例えばラグビーのカナダ代表のボランティアやナミビアの慰労等、ラグビー選手の非常に美しい一面を垣間見せることになる。私がテレビで見た限りでは、ある老人はカナダ代表のボランティアに感極まっていた。

 つまるところ、私の理解ではラグビーとは多様性とフェアネス(ノーサイド)、ということになるのかもしれない。そしてこれは、奇しくも我々の住まう国において、ある傾向の一つの「逆説」ともなろうかと思うのだった。

 唐突だが私はアメリカという国が好きで、それは観念的なアメリカ、例えば『草の葉』を書いたホイットマンが歌うような、そんなアメリカなのかもしれないのだが、ボルヘスは『北アメリカ文学講義』の中だったと思うが、アメリカのフェアネス精神を称揚している。それは昨今の米中関係を受けて辛辣に両者をこき下ろしたアニメ『サウスパーク』にも現れているのかもしれない。

中国、米人気アニメ「サウスパーク」を完全締め出し 中国批判の内容に反発 - 産経ニュース

 私の中では、ということを前提に述べると、このフェアネス精神はインクルージョン(包摂)を含有していると思う。誰にとっても不幸は訪れうるわけで、そのときに互いの立場をフェアに迎え入れること、そして必要に応じて援助を行うこと、といった意味合いにおいて。さはさりながら、本邦における行政はそういった意味では拒絶を選択したように素人目には見えてしまう状況が発生した。

【台風19号】「人命」より「住民票」? ホームレス避難所拒否で見えた自治体の大きな課題 (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 ここにもまた一つの、別の「逆説」が存在しているようにも思う。もちろん、ラグビーが示した精神が、必ずしも行政上の選択、ここの事例で言うところの台東区におけるホームレス排除と関係があるのかと問われれば、本質的には異なるかもしれない。しかしながら、一方ではその多様性とフェアネスを、他方でその拒絶が横たわっている現状というのは、どこか奇妙にいびつで、奇妙に逆説的な状況にあるような気がしてならない。