Outside

Something is better than nothing.

一度に一つの生

フェラーリ (…)ところでボルヘス、こうやってあなたと話しているうちに、ストア主義とあなたとのもう一つの共通点に気づきました。たとえば、定められた仕方でこの生を生き、来世にはあまりこだわらないという考えです。

ボルヘス ええ、それを言ったのは、少しもストア派ではなかった孔子でした。孔子は——悪意はなかったと思いますが——超自然の存在は尊ばれるべきだが、遠ざけておくほうがいいと言いました(二人笑う)。孔子がそうしたものを信じていなかったわけでもないと思います。あるいは神道でも「一度に一つの生」とも言われています。つまり今生で行いを正しくし、来世での行いは気にしないと言うことです。(『記憶の図書館: ボルヘス対話集成』補遺12「ストア主義」、垂野創一郎訳、国書刊行会、2021年、P.564)

 私たちはこの本を読むことで、いつでもボルヘス(とフェラーリ)の友達になることができ、彼らとの対話を行う中で、いつでも驚くべき着想、記憶、知識等々に触れることができるという、良いことずくめのこの本をちまちまと楽しみに読み進めていたある日のことだった。

 私は神道というものがどういうものなのかは分からないのだけれども、ここでボルヘスの述べている「一度に一つの生」という言葉は例えば日本語の一般的な語彙であり、三木道三の「Lifetime Respect」の特徴的なセンテンスにも使われている「一生」という言葉を思い返すことになるのだが、ボルヘスストア派を巡るこの対話の趣旨とは少し異なったところで、私ははてと思った。

 Lifeにはどういう語源が認められるかは分からないのだが、私たちは日本語の中で(それこそ)「一生、一緒に」とか、「一生のお願い」といった言葉を何気なく使っているのだが、しかし果たしてLifeとは「一つ」なのだろうか。

 私はすでに三十歳を超えて、それなりに人生を歩んできたと言えなくもない年齢に差し掛かっているが、一個体の生誕から現在に至るまでのこの道筋の中に、いくつもの分岐——というより切断があり、そのたびにあちらの私とこちらの私が別々の場所にいるような、そんな気がしている——と、「一生」という言葉に少し疑問を抱いた後に思った。

 つまり、私たちは「一生一緒にいてくれや」と歌ったところで、さくっと離婚してしまうこともできるのだし(これは人選によるが)、「一生のお願い」を何度目かの人生を経過したかのごとく多用している。

 実はLifeとは一つではなく、多様なものなのではないのだろうか、というのはボルヘスの不死のイメージに寄っているからなのかもしれないのだが、私はどれくらい「私」を担保したまま生きているのだろうか、とも思う。細胞の入れ替わりの都度、私は「私」を捨て、新たな装いをすることになる。やがて私は「私」であったことを忘れるのだろうと思う。

 話を戻すと、この「一生」という言葉には、何か私たちの複数のLifeを一つのものに縛りつけようとする意図——こういっては呪術的になるかもしれないが「呪い」——があるように感じられる。

 度重なる切断の果てに、切り刻まれた「私」の原型はどこにもいないにもかかわらず、私は「私」を保持しようと「一つの生」を言い募る。「今生」という言葉をボルヘスは使って、やや宗教的な射程を残しているようにも感じられるが、私たちが不死であるならばそれは次の私のことと変わりはない。天国や地獄というのは、私の次にあるものなのだろう。