Outside

Something is better than nothing.

『隔たる世界の2人』(2020年)

 トレイボン・フリーとマーティン・デズモンド・ローの『隔たる世界の2人』を観る。

 ジョーイ・バッドアス演じるカーターは、昨日懇ろな仲になり一夜を共にしたザリア・シモン演じるペリーの元を惜しみながらも飼い犬のために離れるのだが、アパートを出て、アンドリュー・ハワード演じる警察官のメルクに呼び止められ、あらぬ罪を着せられ「I can't breathe.」と述べて警察官たちに窒息死させられてしまう。しかし、次の瞬間、目を覚ますと彼はペリーの家に戻っている。悪夢を見たと初めは思ったものの、実際は何度も似たようなシチュエーションを繰り返していることが分かる。どのような行動をしても、最後には殺されてしまう状況にカーターは嫌気がさすが、メルクと仲良くなることを思いつき、それが功を奏して互いに打ち解け、自宅まで送ってくれるように手配する。ようやく愛犬と対面が叶うかと思った次の瞬間、メルクもまた何度も時間を繰り返していることが分かり、今回はこのパターンかと言われて射殺されるのだった。

 明らかにジョージ・フロイドをモチーフにしており、作中にも登場するくらいなので、映画であり政治的なメッセージを含んだ映像作品であることが明白なものである、という前提と、当然私もジョージ・フロイド事件のブラック・ライブズ・マターの運動自体には賛同の意を表明しているところである。

 その前提を踏まえた上で、この映画を見ていくと、新型コロナウイルスの惨禍に見舞われた世界において、そしてそのアメリカにおいて私が目にしたニュースの中に、アジア系の人々が路上で、何の前触れもなく(前触れがあればよい、というわけでもないが)暴力を振るわれることがあった、ということである。そして、往々にしてその暴力の対象となったのは女性であり、ショッキングなニュースの中には年配の、「かなり」とつくべき年配の女性もまたその対象に入ってしまっていた、ということなのだった。

 少し不正確な記憶に基づくので事実と異なるかもしれないが、その暴力を振るった人間には、ここで息ができないと述べていた側の人々もいたように思われる。そしてその体格差、である。大柄な男たちが、小柄で、時に年老いたアジア系の女性たちに不意に、猛烈な暴力を振るう現場を、スマートフォンや監視カメラの映像によって、TwitterなどのSNSを通じて私たちは見ていたはずである(私が記憶しているのは女性が対象になっていたものだけだが、実際は男性も含まれていたのかもしれない)。

 私はこの状況に断固として抗議するとともに、理不尽な暴力を振るわれた方々の側に常に立ちたい、寄り添っていたいと思っているが、この理不尽なまでの暴力的シチュエーションに置かれた「隔たる世界の2人」というものの限定的なシチュエーションこそが、その実、何かを隠蔽してしまっていないのだろうか、と少し映画から離れた地点から見たときに、そして2021年という地点にいると思ってしまうのだった。

(ここで私が述べたいのは、ある問題が述べられているときに、「こういった問題はなぜ扱わないのか」と横槍を入れて、そのある問題を矮小化する、ということではなく)この「隔たる世界の2人」の置かれたシチュエーションにおいて、「カーター」と「メルク」の間に、非常に解消不可能な形での差別的なものを前提としたコミュニケーションがあったかもしれないが、少なくとも私自身がマクロな観点で見たときにその範疇に含まれる「アジア系」(黄色人種と言い換えるのはややナンセンスなのか)にとっては、その冷然としたコミュニケーションすら機会が与えられず、剥奪され、年老いた女性は突然、前触れもなく殴られて、殴った相手は逃げ去っていく(しかもそこには「カーター」や「メルク」のようなその女性と比べると明らかに大柄な人物もいる)。

 そして、「ペリー」が述べたように、「この国=アメリカ」で暮らす黒人女性には銃が必要だといったセリフとは無縁に、あの年老いた女性には自衛の手段すら剥奪されているようにも感じられる。そしてその彼女は、時に男性と一緒に歩いているときですら、一瞬の隙を突いて顔面を殴られてしまう。

 もちろん、この「ペリー」についてはやや外しているような気もするのだが、この「隔たる世界の2人」というタイトルは、2パックの楽曲名から取っているらしいので難しいところなのだが、この「2人」というところに引っ掛かりを覚えるのだった。

 私はこの映画自体を肯定するし、エンドロールで流れる彼らの名前の意味も理解するが、どうしても年老いた彼女たちが突如として殴られるあの瞬間が、脳裏にこびりついて離れないのだった。