Outside

Something is better than nothing.

ペソアを読む喜び

 

Saudade

 秋が訪れるたびに、私の中にあるサウダーデが訪れるのだが、それはもっぱらフェルナンド・ペソアに起因するもので、この季節において私はペソアを思い出す。

 ペソアの作り出した宇宙は、異名という、一種の異様さをもって私たちの前に現前することになるのだが、わずかに私が読み解いたのは平凡社ライブラリーから出版されている『不安の書、断章』だけで、しかし、それだけでも私たちのサウダーデを刺激してやまない。 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

 ポーは創造性には最大限のネゲイションが必要だと説いたが、ペソアの作り出した異名の一つであるところのベルナルド・ソアレスは、まさにそのネゲイションによって私たちを魅了しているようにも思える。ただそれは単に何かを否定することに留まらず、その否定や諦観、まさにサウダーデとしか言いようのないものの中にある詩情が、言いようのない豊穣へと導いてくれる。

 前掲書のエピグラフの中に、さまざまな作家のオマージュが捧げられているが、その中でボルヘスがどうかあなたの友人でいさせてください、といったようなことを書いている。そして、私も(おそらく私たちも)同様の意見を持っている。

 私たちはおそらく何らかの形で常に持たざる者であるのだが、それは「世界」というものについても同様なのかもしれない。そしてそういったとき、ペソアは私たちの隣に寄り添うように、しかしどこか超然としてそこにいるような気がする。

  世界はなにも感じない連中のものだ。実践的な人間であるための本質的条件は感受性の欠如であり、生き抜いてゆくために重要な長所は、行動を導くもの、つまり意志だ。行動を妨げるものが二つある。感受性と分析的思考だ。そして分析的思考とは結局のところ感受性をそなえた思考に他ならない。あらゆる行動は、本来、外的な世界へわれわれの人格を投影することだが、外的な世界はその大部分が人間という存在によって構成されているので、人格を投影するということは、他人の道の上に立ちふさがり、自分の行動の仕方によって他人の妨害をし、傷つけ、踏みつぶすことに本質的に帰着する。(前掲書、P.313)

  また、私たちの歩む道は、ローマのようにはどこにも繋がらない。安部公房が『壁』の中でいみじくも喝破したように、私たちの歩む道は永遠に中心には辿り着かない。それは私たちの歩み方が間違っているわけでも、道のあり方が間違っているわけでもない。私たちにとっての中心が、あらゆる場所に顕現するようになったからだ。

「いかなる道も、このエンテプフルの道でさえも、おまえを世界の果てへと導くだろう」とカーライル[『衣装哲学』]は言う。しかし、世界一周が果たされ、世界が知りつくされて以来、世界の果てとは、出発点であったこのエンテプフルそのものになってしまったのだ。(前掲書、P.269)

 私たちは誰かであると同時に誰でもないということは、この中心を欠いた世界のあり方そのものに起因するに違いない。そして、その認識の中でペソアは、静かにそれを喝破し、異名という方法をもって、別種の「わたし」を作り出し、オルタナティブなものを提示する。オルタナティブ、と私は書いたが、私にとってペソアの本質はそこなのかもしれない。

 私の心は、穴のあいた桶のように、その気がないのに空になってゆく。考えることだろうか。感じることだろうか。明確に定義されてしまうと、なんとすべてに飽きてしまうことか。(前掲書、P.288)

 過度に哲学的に考える必要はないとは思うが、私にとってペソアの魅力は「わたし」というものの飽くなきネゲイションと、そのオルタナティブなものの提示ということなのかもしれない。

 最近、プレゼントで『不安の書』の増補版を貰った。少し読むだけでも、(こういう読み方は元々好きではないのだけれども)染み渡るものがあって、なかなか読み進まない。決してポジティブな何かをもたらし続ける読書というわけではないのだが、しかし、その中で得られるものの豊穣さは、単にポジティブな創造性を発揮したものとは異質の、そして唯一のものである。

 秋の夜長にこの本を読んでいくのが、私の最近の楽しみなのであった。 

不安の書 【増補版】

不安の書 【増補版】